エッセイ目次

No38
1992年6月4日発行

   
   


鳥取点描

 

   
   

 「鳥取」と「島根」の区別がはっきりとつかない。日本海側の山陰地方と漠然と知っているだけだ、なんていうことを当地の人が知ったら、おどろくだろう。ビギニングニュースに載った、第十回全国合宿研究大会のお知らせに、"in島根"と書いてあって、<あっまずい!>とあせったのは、今や鳥取と島根の区別がつく私だからだ。
 案の定、鳥取の「倉吉キミ子方式を楽しむ会」の里美さんから「修正してください」と電話がはいった。ワープロを打った人は間違いに気づいていない。
 スペインの学校に入っている時、仲良しになったスイスやドイツの友達が「夏休みに、ぜひうちに来てください」と言われ、「スイスってどこ?」「ドイツってどこ?」と聞き、彼らをなげかせた。ヨーロッパの地図を出し、説明してくれた。しっかりわかったのは、実際にその地を旅してからだ。その当時、私は三十七才になっていた。

 

   
   

 その時、鳥取と島根の区別がついていたかどうか自信がない。
 「鳥」と「島」が似ているし、多分わかっていなかったに違いない。 母のふるさとは、「倉吉」と信じていたので、倉吉に出かける前に、大阪にいる伯父に電話をかけた。もし、お墓があるなら、それを見てみたいと。
 伯父は「倉吉ではなくて「水尻」だよ。イナバの白ウサギで有名な神社の近くの・・・」と長話しが始まりそうだった。
 「倉吉じゃなかったの?」とそっちの方が重大事件。ずっと「母のふるさとは倉吉」といいふらしていたからだ。
 倉吉市は彫刻がいっぱいある。一九八五年三月に旧国鉄倉吉線が廃止になり、その線路跡地を「緑の彫刻プロムナード」と題した遊歩道にしたそうだ。
 旅にでて街角に立っている彫刻に会うと、必ず、制作者の名前を見るのが習慣になっている。もしかしたら、友達の作品かもしれないからだ。
 倉吉陸橋に、小さな女の子がマントを着てうずくまっているブロンズ像がある。
 「あっマサミチくんだ」と声をあげた。女の子の像が、なぜマサミチくんなのか。作者が山本正道といって、大学の同級生なのだ。
 彼の作品は、横浜の "山下公園 "に「赤い靴をはいた女の子像」という石の彫刻がある。私はまだ、直接見たことがないが、山下公園に行くと、ほとんどの人が、その女の子の像を背景に記念 撮影をするのだそうだ。その記事を新聞などで見知っていた。
 ヤマモトマサミチの名前を知らなくても、山下公園の女の子の石像と言うほうが有名である。
 彫刻は大学に入るまで、まったくやったことがなかったのに, 油絵科入試の競争率に恐れをなした私は、競争率の低い科を探したのだった。大学に入ることが大切で、専攻科は何でもよい。どの科でも、もし受かれば油絵を描こうと思っていた。そして幸い、彫刻科に受かった。
 これも「お金持ちでもないのに、娘を大学にいかせるなんて」という陰口をはねのけ、学費を送りつづけてくれた母のおかげだ。
 マサミチくんと山本くんの事を呼んでいたのは、彫刻科二十二名のうち、三名が山本という姓だったからだ。ややこしいので、マサミチくん、ヤマテルさん、ヤマタケさんと三人を呼び分けていて、 今、さて、本名は?と考えると、すぐには浮かんでこない。
 大学時代の仲間、マサミチくんの彫刻に出会えたのは、母のエンかもしれない。

 

   
   

 倉吉市のはずれに三朝町(みささちょう)という温泉町があって、そこの "みさき美術館 "に、ガンダーラ美術館の歓喜仏展というのが常設されている。これがスゴイ。カタログがないのが残念だが、倉吉の産婦人科医のコレクションだそうだ。質といい、量といい「どうして、こんな田舎に?」と言いたくなるくらいだ。産婦人科医のコレクションなので、「生まれる」「愛する」という視点の彫刻群だ。
 その三朝町に "梶川理髪館 "という床屋さんがある。彼はコリにこって床屋に関する骨董品をコレクションし、その当時に使っていたカミソリや泡立て用の器具を今も使っている。
 年代物の床屋の椅子があって、思わずスケッチしてしまった。
 壁にかかっている絵も、アメリカの画家ノーマンロックウエルが描いた、床屋がテーマの名画だ。
 その床屋の梶川一家と一緒に昨年「大山」登山をした。  「大山」無念の山だった。大学時代に山に登るためにテントをもって、山岳部の仲間、男子四名と私の五人で「大山」のふもとまで行った。三月のことだったような気がする。その年に限って雪がふって、雪山の装備を持たない私たちは、テントの中で、一週間天候回復を待った。しかし回復しなかった。
 母のふるさと、鳥取の山「大山」に登ることができず、つくづく自分の不運をなげいた。
 母をうらぎって、こっそり子どもを産んだりした復讐かもしれない、などと考えたりした。
 その「大山」に、一九九一年の夏に、登ることができた。その時の仲間は梶川さん一家、小谷姉弟とその友達。外国人何人かと農業高校の先生の案内で。
 生まれてはじめて、砂下りを体験した。
 これでやっと大山におびえずに、「大山はいい山だった」と言えるのが嬉しい。

 

   
     

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