エッセイ目次

No39
1992年7月4日発行

   
   


入門教育のすばらしさ

 

   
   

 香川県高松市に住む、道先亜津子さんの紹介で、友人数名が集まり、キミ子方式の話をさせてもらった。
 会場を提供して下さった、宮城正枝さんから『出会いのアメリカ』宮城正枝著(仮伝杜)という本をいた。
 一九三八年生まれの宮城正続さんは、アメリカに行きたい夢を抱え、中学校の英語教師を六年間し、家庭に入り、愛媛大学や香川大学の聴講生になり、四十才で香川大学の助手として、再び働きに出た。
 末の娘が東京の大学へ入学した時、夫に 「娘が卒業したら、私の母親の役目が終わるから、今度は私が一年アメリカに行ってきたいと思う」と告げた。
 彼女が四十七才の時、ケニアのナイロビで行われる"世界婦人会議"に香川県から海外研修の名目で派遣され、アフリカヘ二週間行った。
 四十九才の時、国際交流機関「インターナショナル,インターシップ・プログラム」の仕事を新開で見つけ、応募し、合格した。
  そして、ニューハンプシャー州のコンコードという町の−あのスペースシャトル「チャレンジャー」の事故で亡くなったクリスタ・マコーリフさんの−学校へ行くことになった。
 一年間アメリカで暮らし、そこで出会った人々と語り、時間が足りず、ついにアンケート調査をした。  アンケートの内容は次の通りである。
 簡単な履歴。子どもの保育の問題。出産休暇。日頃思っている事など。  その調査の結果、彼女が発見したのは  「育児の後、大学に行って勉強し、新しく仕事を始めることが、ごく当たり前の生き方になっていることである。この方法をこそ、私は日本に持って帰りたいと切に思った」事である。

   
   

 アメリカの各大学は社会人の受け入れに熱心で、ニューハンプシャー州立大学は社会人の学生10%。ノートルダムの大学は60%が社会人である。
  「今のところ大量の社会人が大学に入り直す現象はアメリカだけのものである。」と彼女は書いているが、十五年前、バルセロナの美術大学で、私が出会った学生は、定年退職後とかの若者ではない人たちだった。
 教室にあった彫刻の六割はカチカチに固くなった枯土のまま、作者は登校していない。
 「あっ彫刻がかわいそう」と言ったら、教師は「若者はちっとも学校に来ない。若者はダメだね。きっと海に行っているよ」と嘆いていた。  私の通っていた語学学校も、夏が近づくと共に、学校に来る生徒が日に日に少なくなった。
 さて、アメリカが今日のアメリカになったきっかけは、一九六○年以来の公民権運動と、ベティ・フリーダンの本『フェミニン・ミスティーク』だった。
 経済的に豊かになったアメリカは
 「いつも側にいて、子供を駆りたて、宿題をしてやる母親の子供たちに、奇妙なことが起こってきたとも報告された。子供たちは苦しいことを我慢したり、目的を果たすためにどんな事でも辛抱するという事ができずに、生活にたいくつしていた。また、大学に入学してくる男女学生に、独立独行の意気が欠けていることを、教育者たちは不安に感じ始めていた。」
 「夫や子ども達を通してしか生きる道のない主婦たちは、夫や子ども連を支配しはじめ、その結果、夫も子どもも弱くなり、人間性を喪失しはじめた・・・」(『新しい女性の創造』三浦甘美子訳)
 そのためには、妻であり、母であるだけでなく、人間として自分を見い出し、能力を伸ばし、社会と接触していくことだと説き、再教育・継続教育保証システムが主婦ばかりでなく、男性にも広がって、今日の社会人を受け入れる大学がアメリカに生まれた。
 この宮城さんの本を読んで、全く絵とは縁のない人生を歩んできた多くの人が、キミ子方式に出会い絵が描けるようになり、そのことで新しい人生の転換を迎えた人に置き換え考えてみた。

 

   
   

 私はいままでの絵の描き方〈構図→形→色(全体から部分ヘ)〉を三十五才までやり、その描き方をベースに産休補助教員として教えていた。
 しかし現実には、多くほとんどの子ども達からは受け入れられず、自分をかえることを強要された。そして、その時に出会った少年少女から、新しい価値、新しいものの見方を教わり、今までと逆の方法を発見した。
 「キミ子方式」から絵の世界に入った人はほとんど、絵の描き方は、「キミ子方式」しか知らない。
 そういう人々ヘ、今までの絵の描き方を学んでもらいたいと思った。 そして、二つの比較の中で、キミ子方式をあらためて考えてほしかった。
 そこで、武蔵野美術大学の短期大学部への進学を進めた。  キミ子方式一期生の堀江晴美さんや佐藤裕子さん、阿部節子さんは、〈色→形→構図(部分から全体ヘ)〉の発想しかない。その描き方に従って、石管デッサンですら部分から全体へと描きすすめ、全ての課題をこなしていった。
 そのことで武蔵野美大に少なからずショックを与えたにちがいない。
 また、使う油絵の具も三原色と白だけに固執したことも、教授たちにバカにされた。
 こうして、キミ子方式で絵を描くよろこびを知った何人もが大学に入り、展覧会もした。このように実践して下さって、〈人生はどんな年齢になっても、自分の望みにそって開かれる〉ということが実感できたにちがいない。
 若い時に美大に入りたかった人は、これからだって美大に入れるシステムが日本にもあるのだ。

 

   
   

 美大に入った人たちへ私からお願いしたことは「教員免許状をとってほしい」ということだった。
 教員免許状を取るためには、美術教育法をはじめ教育関係の学科を学ばなければならない。美術教育がどのように歩んできたかを知るチャンスである。
 ところが、東京都をはじめ教員採用資格は三十五才の年齢制限がある。そのために、三十五才を過ぎた人は、教育実習の受け入れ校がないのだった。それで、多くの人は断念せざるをえなかった。  
 このあいだ、ひょんな事から朗報を聞いた。
 埼玉県が教員採用年齢の上限を五十才に引き上げ、しかも採用試験が、一芸に秀でていればよいというように大きく変わったそうだ。従って、教育実習校が年齢制限を理由に断れないことだろう。
 アメリカに遅れること三十年。しかし、着実に、家庭の主婦からの脱出が進んでいる。
 女性が社会に進出し、社会的責任を持てば男性も家事的責任を持ち、それぞれが社会と個人で自立した暮らしになると思う。
 そのために、年齢に関係なく誰でも描ける美術入門教育「キミ子方式」は、役立つと心強く思っている。
 そして、入門教育こそ教育なのだとさえ思う。

 

   
     

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