エッセイ目次

No40
1992年8月4日発行

   
   


人との出会い

 

   
   

  何かを学ぶ時は、そのことに集中するために、そのこと以外をなるべくシンプルにする。
 その決意のもとに、三十六才の私は、四月からのスペイン留学のために、二月から始まった、スペイン語集講座受講のため、信濃町のスペイン協会に、週三日通いはじめた。
 毎日、同じ時刻の電車にのり、化粧はせず、同じ洋服を着、昼休みは決まったレストランに行き、決まった昼食をたぺる。これをくり返していた。
 講座の先生は、予習・復習を義務づけたが、二才、六才、十一才の息子の世語と、芸術家でお酒大好き気むずかしやの夫との日常雑務で、できるわけがない。往復一時間の電車の中だけが自分の時間であった。

 

   
   

 当時、私は誰でも絵が描ける方法を考えていて、あちこちの研究会で発表していた。
 しかし、全く反応がなかった。私がしゃべればしゃべるほど、無言の反応なのである。無視されたにも等しい。なおも食い下がる私に、あきらかに作戦をたてているように、私の発言をさえぎる意見が飛び交う。
 私は、すっかり日本の教育界に絶望してしまった。芸術家−自分だけがすぱらしい作家になるというエゴイスト−を目指してきた私は、教育者−全ての人にと考えるヒューマニスト−に感動し、共鳴し「誰でも絵が描ける絵の描き方」をめざして試行錯限しながら、やっとその成果をあこがれの教育者集団に間いかけたのに、憧れが深かった分、絶望も深かった。
 日本を逃げよう。絵の描き方なんてこだわるのをやめよう。もっと自分を見つめよう。もう一度彫刻家に戻ろう。そのためには、あこがれの作家ガウディのいたスペインのバロセロナに行こう、と決心してのスペイン語学校通いとなった。
 三十六才まで、スペイン語など意識したことがない。スペインに行くためにはスペイン語をと、NHKラジオ講座のスペイン語を通勤途中のカーラジオできいた。それがはじめてのスペイン語との出会いだ。
 二十五才で大学を出ると同時に子どもを生み、三人の子育てと、生活を維持するのに夢中で、外国語を最後に学んだのは、もうはるか昔だ。それも大学受験英語。
 私は予習・復習をやっていかないので、よく立たされた。立たされながら考えた。 〈先生、生徒の私ができないのは、教える先生の責任よ。私だったらすべての人に絵を描く楽しみを教えられるのよ〉と。

 

   
   

 ある日、クラスで脚本をつくって芝居をすることになった。私の役はクズで、キタナクて、ドジな中年女の役だった。私はもちろん、その役を文句も言わず引き受けた。心の中では、クサリながら。
 その時だった。年輩の上品で美しい女性が、私に話かけた。
「あなた、本を書く人でしょう? あなたのこと、どこかで聞いたような気がするんですけど・・・」
 まわりの人は笑った。私も「人ちがいですよ」と言った。 彼女は私をまっすぐに見て
「いいえ、あなたはものを深く考える人です。私はあなたの本をぜひ読みたいのです。あなたの本を売って下さい」
 彼女の気迫におされて、クズでキタナイ中年女の役を、ちょっと横において 「本っていってもガリ刷りの本です。『絵のかけない子は私の教師』というタイトルで。でも、もう一冊しか残っていません。ですから、あげるわけにはいきません。貸してあげます。でもきっと人違いだと思いますよ」
「いいえ、あなたです。必ず明日その御本、持ってきて下さい」。
 翌日、たった一冊残っていたガリ刷り本を、彼女に貸した。
 二月のさむい夜、電話が入った。奥内と名乗る女性からの電話で、すぐに彼女だとはわからなかった。
「今、コピー屋さんにいます。やっぱり、あなたは私の考えている人でした。すばらしい本ですね。この本、コピーさせていただけませんか」
「コピーはかまいませんが、私、美術教育はやめたんです。それでスペインに行くんです」と電話口で叫んでいた。
 翌日、スペイン学校で会った奥内さんは晴れやかだった。 「私、もう年をとって、おいしいもの会べたいとも、すてきな洋服を着たいとも思いません。でもね、ただすてきな人に会いたいって、それだけが夢なの。あなたに会えたから、もうスペイン語学校は意味がないわ。だからこの学校やめます。あなた、すぱらしいことを考えていたんですね・・・」
 私はただ首をふっていた。私はおいしいもの会ぺたいし、もっとましな洋服を着たい。広くて清潔な家に住みたい。行きたい外国もいっぱいある。お金がほしい。目の前で私を尊敬の目で見つづける彼女は眩しすぎる。そして、あまりのほめ言葉にうさん臭くもあった。
 一九七七年四月、羽田からスペインに飛び立つ時、彼女はご主人と見送りにきてくれた。
「あなたはスペインで学ばれて、大きくなって、日本に戻り、日本で羽ばたくのです」
 私は又、首を横におおきくふった。
 「いいえ、私は日本に帰ってきません。私は日本を捨てるのです」

 

   
   

 美術教育のことを忘れるためのスペイン留学のはずが、スペインでは美術教育の話ばかりして過ごすことになる。
 日本を捨てるはずの旅が
「そんなすごいこと考えたのに、本にしないともったいない。日本語だけの本は、本とは昔わないよ。英語やフランス語や、最低四ケ国語にしないとね。早く日本に帰って本にすること。そして、僕たちに送りなさい」と外国の友人たちにはげまされて、又、日本に帰ってきてしまった。
 帰国後初の油絵展覧会に、奥向さんが来て下さった。旅の間中、かつぎまわったグラナダから六時間ほど南下した小さな街の風景画を、私は非売品にした。自分の旅の思い出にこれだけは手放したくなかった。
 奥内さんは、その作品をぜひ譲ってほしいという。六号、たしか七万円だった。
 手放すことにした。奥向さんのおかけで、日本に目的をもって戻ることができたのだから。
 「ごめんなさいね。今、手元にお金がなくて。年が明けてからお支払いしようと思うんですけど、よろしいでしょうか」と奥向さんは言った。
 正直〈サギ師かもしれない〉と思った。あの歯の浮くようなほめ言葉といい、話がうますぎる。でも、もし、彼女に会わなかったら、私は今、日本にはいない。
〈サギ師でもいい、彼女に作品をあげよう〉
「いいですよ。私が一番気に入っている作品を、気に入ってもらえてうれしいです。大事にして下さい」

 展覧会から一ケ月後、彼女から連絡があり「絵のお金、おそくなってしまってごめんなさい」と一通の封筒を受け取った。
 そのまま、半月ほどたって、生活費に使うために、その七万円入っているはずの封筒をあけた。十五万円入っていた。
 間違って彼女、大金を入れてしまったんだ。さっそく興響して電話した。
「あの封筒の中に、十五万円入ってました。作品の値段は七万円ですから、すぐに送り返します」
「いいえ、ほんとうはもっとたくさんお支払いしたかったのに、あんな少しでごめんなさい」
〈サギ師ではなかった−−〉
 あの時の奥内さんは、一体何才だったのだろう。三十代の私は敬慢で、自分より年上は、おぱさんとかおぱあさんとか見ていたにちがいない。
 私は今、五十二才。最近になってやっと、会べたいものはもうないな。着たいもの、住みたいもの、いい車、行きたい外国・・・もう十分かなと思う。それよりも気持ちの良い時を。陽の出と共に森に散歩に行き、朝陽をうけながら、森の中で読む新聞。海の波の音を間きながら砂浜での日光浴。音楽を間きながらベットにねそべり、ぼんやり窓の外に広がる空を眺める。そんな時「しあわせだなあ」と思う。
 そして、人との出会いも気持ちいい関係でいたいと思う。
 その一つに、今日も又、私はキミ子方式の絵を教える。絵を描きあけた時のうれしそうな作者の顔を見るとき「しあわせ!」とつぷやいてしまう。

 

   
     

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