エッセイ目次

No58
1994年2月4日発行

   
   


アメージング

   
   

 毎年、十二月と一月は休暇をとることにしている。今年は、ネパール・インド・シンガポール・ニュージーランドの旅だった。
 地理音痴の私は、昔スペインに行っている時「ヘェー スイスって海があるんだ」と感動したら、それはレマン湖だった。
 三年程前、新潟県大和市に人間ドックのために行って、そこで同席した方が、「お釈迦様のインドがすてきだったわ」というので「ヘェ、お釈迦様って、インド生まれなの?」と聞き返したら「キャーあなたイクツ? 常識ってものがまるでない」と、大声で叫ばれ軽蔑された。
 私は常識がない、ということは十分自覚しているので、そんなに驚かないでほしいと思った。
 ドイツがどこにあるか、スリランカがどこにあるのかわからない。
  だから、旅に出たいと思う。旅にさえ出れば、自分の行ったところの地名は覚えられる。

   
   

 

ネパール

 ネパールのカトマンズで、街の四方の山に建っている、目玉寺院を見に行った。
 元、石彫家の私は「あーもったいない」と叫びたくなる石仏がぐさぐさ並び、その上に洗濯物が広げてある。
 猿がかけまわり、不思議なことにどの犬も陽だまりでトロンと、まるで死んだように寝ている。走り回る犬なんて一匹もいない。
 石仏に、オレンジや緑、白のペンキを塗っている、六十代のやせた男性がいた。
 私はペンキの缶を見た。赤、青、黄色、白と黒色だった。その人は、三原色をまぜて色をつくり、塗っているのだ。
 「やっぱりかー」と感動と尊敬でその人のペンキ塗りの手つきを見ていた。ゆっくり、ゆっくり、何度も同じところを塗っている。私もカトマンズの犬と同じように、陽なたぼっこをしながら、黒だって作れるのになぁと、ペンキ屋さんを眺める。
 ネパールでは寺院に、お坊さんだけでなく庶民が住んでいる。観光地としても、お参りの地としても有名なそのお寺に、自炊道具を持って、寺院の板の間の上で、家族でモノを煮たきして食べていたり、お賽銭をあげるところに、人が寝ていたりする。
 そんな風景を眺めていたら、さっきのペンキ屋さんが私を追いかけてくる。
  そして言う「はっぱがほしいんじゃないの? あるよ」
  いいえ結構。カルチャーショックで十分トリップしています。

   
   

 

インド

 インドに入って六日目。カジュラホ村に行った。
  それまでの五日間は、人人人、ほこり、汗、音、異文化、物売り、物乞いにかこまれ、一人でボンヤリするスキ間がなかったが、カジュラホ村は、空気がきれいで緑がいっぱい。ブーゲンビリアが咲き、風がここちよい。
日光浴には最適だった。久しぶりにヴィシュワナータ寺院で昼寝をした。セクシーな彫刻のレリーフのある寺院。
 そこで、ジュルカ・ティワリ氏と知り合う。ティワリ家に毎夜、手作りの料理をごちそうになり、 二日目は息子さんの四歳の誕生日で、ティワリ家の親類が集まった。
 その中にいた、ジュルカ夫人の妹さんを紹介された。一目で気が合う。それもそのはず、インドの美大を出て、今は絵画教室の助手をしているとのこと。
 誕生パーティーで、ワイワイガヤガヤとうかれている時なので、キミ子方式の話はできなかった。
 ティワリ夫婦の結婚式の写真を見せてもらたり、ジュルカ夫人は私のヒタイに赤丸のポットウをつけてくれ、妹さんは、自分の腕に三つしていたブレスレッドを一つくれた。

 インド最後の地は、南のマドラス。そのあたりは旅慣れてきたのと、南インドののどかさと、そこでガイドをしてくれたセリアさんと気があった。
 バスに乗っての市内観光。バスの席は、男と女が真ん中の通路をはさんで左右にわかれる。ぎっしりつまったバスの中で、キップ売りの車掌さんに遠い人は人伝いに切符代が渡され、きちんと車掌さんに届く。そしてキップとおつりが、今の逆の流れで人から人へと渡り、本人に届く。戦争中のバケツリレーのようだ。決して大声をあげたりはしない。窓ガラスのないオンボロバスのエンジン音で、人の声は伝わらない。
 バスの外にも、たくさんの人がぶらさがっていて、かっこいい乗り方のようだ。外にぶらさがる人は両手を自由にしなくちゃならないので、あらかじめ荷物は、座席に座っている人に持ってもらうよう頼むのだ。友人でも親戚でなくても、みんな信用しあっているのが見ていてたのしかった。
  マハーバリプラムは、石、石、石、で出来ている寺院。寺院の近くではあちこちから石を彫るノミの音が聞こえる。「黒みかげ石だ」なんて、彫刻科の学生時代を思い出す。
 ふと、案内してくているセリアさんに、絵を教えようという気になった。色づくりだけでもいいではないか。
  「すべての色が赤、青、黄色で出来ているのよ」という私の話に、関心し「インドにもスクールをつくったら」と言ってくれたのに「さあ、描きましょう」とスケッチブックやパレットを出しはじめたら
  「No!No!」と大きな黒い身体をよじって、真剣に逃げ出してしまった。
  あまりにも真剣な拒否のポーズに殺人鬼のような顔になっちゃてるんだろうかと不安になり、彼らには、もっと傍らにいてほしいから、絵を教えるのをあきらめた。

   
   

 

 ニュージーランド

 一九九四年一月四日はニュージーランドのフティアンガ。「キミ子方式で絵を描こう」のツアーを行った町。今回で四回目、一週間の旅も入れると五回目。
 今年はホームステイをやめて、英語学校に行くのもやめて、ホリデーハウスでショパンばかりを聴く。
 夜、ベットルームからは天の川がはっきり見える。朝陽が見たくて、カーテンを半分開けて寝る。
 「家」の花畑の前は道路が走り、道路の向こうは芝生、そしてビーチ。  海とテラスの間には、なにもさえぎるものは何もない。水平線は見えない。湾だからだ。右手に砂浜が広がり、左手には岩場。その岩場でマッスルという貝がどっさりとれる。
  お隣のお隣に住む、六十代のミセス・キャスィにお茶をごちそうになった。
この家の前の持ち主も、エリザベスという有名な画家だったので「今度は日本の画家に会える」と楽しみにしていたのだと言う。
  「絵を描いた?」というので、
  「私、自分で絵を描くより、人に絵の描き方を教えたいのよ。誰でも絵が描ける特別な方法を発明してね。あなたもためしてみない?20分で描けるから」と言った。夕焼けに染まる空と海を見ながら、おいしいお茶の友としての会話だった。
 キャスィ夫人は絵を描きたいという。そしてホントに、四日後、私の家に絵を描きに来たのだ。
  「20分で十分だから」と念を押した。インドで信念をもった拒否にあっているから、短時間で出来るということを強調したかった。
 三原色と白で色づくり。彼女は42色できた。新しい色ができるたびに「アメーイジング」を連発する。
  そして最後に「黒はできるの?」「もちろん」と、赤、あいいろ、黄色を混ぜて作ってみせる。
  「アメーイジング!!」
  「二日後、次は草花を描きましょう、20分」と言うと、又  「アメーイジング!」
 キャスィ夫人が帰られて、いそいで辞書を引いて、アメーイジングの日本語を探す。「おどろいた!」という言葉だった。
  二日後、夜、電球の下で「アカマンマ」を教えた。
  「どの色も必ず三原色と白を混ぜ植物は成長の順に」。葉脈を先に描いての"葉脈"という英単語がわからなかったけど通じた。
 きっかり20分で終わる。彼女は結婚する前は、小学生の先生をしていたそうだ。

 

   
     

アカマンマの絵をハガキ絵にする方法も教えた。
  「アメーイジング!」
 十二月十六日に日本を出て、一月二十六日には日本に戻る日。
 明日、日本に帰るという時、名残惜しく、海側のベランダ(ベランダだけでも三○畳以上ある)で、毎日、貝をとった海をながめながら、お茶を飲んでいたら、キャスィ夫人が下の道路を通った。
  「明日、日本に帰るの。最後のレッスンする?空を描きましょう、5分」と声をかけると、彼女は「本当に。ぜひ、お願いするわ」と誘いに応じてくれた。
  まずは左手に広がる青空を描く。遠くの山も見えるので、空の下には山。
  ほんとうは大きな画用紙がいいのだけど、持っていないので、ハガキの二倍くらいのスケッチブックに、大筆で描く。1分くらいで空はできる。
  「アメーイジング」
 右手の空は雲がいっぱい。わが家のベランダから、二四○度、空が見える。
  「灰色を作るには黒がないと‥‥」キャスィ夫人。
  「No No 赤、青、黄色、白で十分」と私。そして、私がまず自分のパレットにつくる。
 「オー アメイジング!」
 曇り空も、小さなスケッチブックなので、1分30秒くらいで出来る。毎日、海を見て暮らしている キャスィ夫人のために、海の描き方、そして湾の向こうの山の描き方を教えた。
  「次のレッスンは来年の夏に」と私が言うと
  「楽しみだわ」と絵を抱えながらキャスィ夫人は答えてくれた。
 来年は大きな画用紙と、色画用紙、毛糸の帽子を持って、出かけようと思う。

 

   
     

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