エッセイ目次
 

No100
1997年8月4日発行


69番菊池チエさんのこと

 6月14・15日、北海道の帯広と穂別に行く日であった。東京の6月は梅雨の季節なので、沖縄か北海道へ行くことにしている。
 北海道行きの前日に、フト〈菊池チエさんはどうしているかな、会いたいなぁ〉と思った。
 絵の会の主催者の小滝眞弓さんに、そのことをファックスしたら、すぐ折り返しの返事がきた。
 「チエさんは、6月5日から一ヶ月、白老町の〈うさぎ小屋〉という喫茶店で展覧会をしています。一緒に見に行きましょう」と。
 菊池チエさんは、キミ子方式通信講座を七〇歳で受講し、受付番号が69番であった。
 私は通信講座の添削をしながら、受講生の年齢のことを考えず、提出作品に添えられた感想文をいつも楽しみに読んでいた。ある日、菊池チエさんの年齢を見て仰天したものだ。
 〈この方、七〇歳だったんだ。四〇代の方とばかりと思っていた。若々しい絵と文章〉
 そして約六ヶ月で、初級入門コースを終え、中級卒業コースも同じ六ヶ月で卒業してしまった。通信講座が始まって、初めての卒業生である。
 東京生まれのチエさんは、北海道の苫小牧に住んでいる。北海道に行く時は、ぜひ会いたいと電話をしたら、その時も、飛行場近くの牧場までタクシーで駆けつけてくれた。それが第一回の出会い。私たちは長い間の親友のように、初夏の風をうけてお互いにニッコリした。地元の絵画サークルに入りたのしい。先生がハンサムだとうれしそうだった。
 そのサークルのグループ展では「月光の曲」という題名で、楽譜の置かれたテーブルを描いて出品した。そして、その作品が売れた。

 それにしても、通信を終えてから七年が過ぎた。
 小滝さんの運転する車でチエさん宅に向かった。今年の北海道は六月なのに、夜はストーブが必要だ。苫小牧は、中学生の頃、修学旅行で製紙工場の見学に一回行ったきりだ。ほとんど何も覚えていない。
 苫小牧は霧の町だった。釧路は霧の町って知っていたけど、苫小牧がそうだとは。霧のせいで、作物も成長しないとかで、樹木が痩せて小さかった。
 公園のそば、お菓子のようなかわいい家、いかにもチエさんらしい家だが、建て売り住宅なのだという。東京で内科医をしていた家を売って、この家を買ったのだと聞いた。
 久しぶりに会ったチエさんは、七七歳になっていた。相変わらず細身の体、若々しく、おしゃれで美しかった。
 「残念ながら、主人は亡くなったの。近くの牧場に長男が住んでいて、今は一人暮らしなの。主人とお別れする時も、べったり傍らにいて、私、看護婦だったから身体中なでまわしてあげて後悔はないわ。最後には、さよならのキスをしたの。それを見て独身の娘が『夫婦っていいわね』と言ったの。それにしても、夫が残してくれたモヤシの絵があるから心強いわ」と見せてくれた。
 それは、チエさんが通信講座の卒業の課題「誰かに教えて」を、ご主人の元さんに、無理矢理描かせた絵だった。堂々としたモヤシの絵。
 元さんの感想文。
 「私の場合、画は一五歳位迄、小中学校の図画の時間に写生をやった位で、其の後、七八歳の今に至る迄、六〇数年間、全然画いた事はない。画が嫌いという訳で無く、ときどき展覧会に行って見たりするが、少なくとも私とは全然距離の遠い社会で、まれに私が画くとしても途中で嫌になるであろうと云う観念が先に立ってやる気にならない。あきらめである。所が家内がキミ子方式と云う方法で画を画くと、上手下手は兎に角、簡単だからやってみろと云う。遂に説得され、又家内の絵が少しづつ上手になって行くのを見て、では一つ試して見るかと云う事で一枚画いた。
 色合せや持ち慣れぬ筆の為、全然駄目である。ただし何事でも始めから満足行く事は無いのだ。だから練習が必要なのだ等と自分を納得させて、先ず筆の運び方から勉強する積もりで居る。成程、画けるようになったら、画く材料は無数にあるのだから、どんなに楽しいだろう等は、不躾な考えを起こして居る。
一九九六、一〇、六 菊池 元」
 人生は短し、芸術は長しですね。いや反対だったかな。この絵と文章に、元さん、今も生きて、私たちに語りかけてくれる。
 「いつも主人が応援してくれているような気がして・・・」と話すチエさんの後ろの壁には、キミ子方式で描いた四つ切色画用紙二枚のダイコンの絵が額縁に入れて飾ってある。
 「どうしても、ダイコンの絵が描きたくて、近所の畑からダイコンをいただいて、かついできて、一気に描いたのよ、おいしそうでしょう! 今はこんなにエネルギーないなぁ」
 今教わっている先生が来られてこの絵を見た時に「ホォ!」って一言でした。と、ニコニコ話されるが、今のチエさんは、卓上風景や部屋の片すみなどを、透明水彩で描いている。
 「途中で絵画サークルの人間関係がわずらわしくて、やめようかなと思った時でも、主人がやめてはもったいないとはげましてくれたんです。毎週一回の絵画サークルがとてもたのしみ。」

 小滝さんの運転する車で、霧の町、苫小牧町をぬけてとなり町の「白老町」に行った。
 この町も、昔彫刻をしていた頃、アイヌのお墓を見に来たことがあった。アイヌの人は、夫婦どちらかが死ぬと、男と女のトーテンポールをたてる。そのトーテンポールが彫刻的魅力があふれていた。確か、生き残っている方のお墓に色彩がつけられていたように思う。
 駅の裏、住宅地の中に、その喫茶店〈うさぎ小屋〉はあった。マスター夫婦は本州(北海道ではこういう)の人だそうだ。
 白樺の木のある庭、山小屋風だ。天井の高い、板張りの壁に、チエさんの水彩画がよくあっていた。
 『北海道新聞』六月六日号に
 「みずみずしい水彩画ー苫小牧の菊池チエさんが初の個展」と題して、写真入りの記事が載っている。
 「・・・スケッチブックと花束、パレット、リンゴを真上からの視点で描いた「春を待つパレット」はみずみずしい。いすの上の帽子と、色づいたホオヅキを題材にした「晩秋の想」浪漫を感じさせ、好きな作品とのこと・・・」
 私と小滝さんは「私、この作品好き」と好きな作品を言い合った。私はまっ赤なザクロが二つ描いてあるのが好きだった。
 七年前にはじめてお目にかかったチエさん七〇歳の時は、白髪で美しかった。ところが今年、白髪の下から黒い髪がはえてきていた。「きたなくなっちゃった」とチエさん。
 何からなにまでどんでん返し続きのチエさんの人生は、これからもかろやかに、さわやかに続く。
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