エッセイ目次
 

No108
1998年4月4日発行


イラクとアインシュタイン

 長崎市で美術館を見たあと、佐々町で待つ友人宅へ向かうために車を走らせた。
 道路は長崎競輪のために渋滞していた。その車の運転は、この夏にコロンビアへ絵を教えにいく仲間の伊達さん。運転しながら、助手席にいる人と、パリへ旅行した時のことを話していた。
 伊達さんの泊まっていたホテルの部屋にドロボーが入り、ハンドバックを盗まれたことを身ぶり手振りでおもしろおかしく話していた。
 後部座席の私は、ウトウトと居眠りをはじめた。
 とつぜん「シラクに・・・」という言葉が、前座席から聞こえてきたような気がした。私は「エッ?」と起きあがって、上半身を前座席へのりだしゆっくり聞いた。
 「今『シラク』と聞こえたようだけど、フランス大統領のシラクのことですか?」
 「そうよ」と伊達さん。
 「パスポートを盗まれたわけだから、いよいよ困ったらシラクに頼もうと思ったのよ」
 私はビックリしない。
 どんなことがあってもビックリしないクセを身につけている。そこで彼女にまた聞いた。
 「どうして、シラク大統領と伊達さんが関係あるの?」
 話によると、シラク大統領は大の相撲好きで、日本に何度もお忍びで相撲見学に来ているそうだ。その時に案内をするのが、相撲協会理事長の佐田山。佐田山は伊達さんと同じ高校の同窓生で、佐田山は同窓会には必ず顔を出し、仕事の疲れをいやし、リラックスされるそうだ。シラクと親友の佐田山に、高校の同窓会長を通じて頼めばパスポートがなくてもパリを出国できるのではないかと考えたというわけだ。
 新潟の石打スキー場で、ペンション〈チロル〉に泊まっている時だ。女主人の関口 佳さんと話をしている時に、彼女は
 「私、小学校の時に父と友達のアインシュタインについて作文に書いたら『大ウソツキ』と先生に叱られてね、ひどいめに合ったのよ。父が『改造』という雑誌を出版している時に、アインシュタインを日本に呼んだのよ。写真もちゃんとあるのよ。でも先生は全然信じてくれなかった。誇大妄想狂って思われちゃったの。ウソツキっていうレッテルまでもらっちゃったわ」
 人はたいてい自分の知っている世界でしか物事が判断できない。でも、とりあえず「ホント? 説明して」と耳をかたむけてくれるといいんだけど、たいていは拒否されてしまう。
 私にも思い出がある。一九七七年四月からスペインに行くぞと決心して、二月から週三回のスペイン語集中講座に通うことになった。
 その時に、仙台から来てユースホステルに泊まりながらスペイン語学校に通っている学生と知り合った。彼は以前ロンドンの語学学校で英語を学んだということだった。彼いわく
 「語学の勉強のコツは、日本語を決して使わないこと、英語かスペイン語のみ。ボクと一緒に勉強会をしない?」と誘ってくれた。「そして、その勉強会では決してウソは言わない。絶対ホントのことだけを言う」とつけ加えた。
 さっそく彼との勉強会を、教室やレストランですることになった。語学学習以外に生活は複雑にしないことを彼から学んだ。同じ洋服、同じ時間、同じレストラン、同じメニュー。そこで必死で日本語以外の言葉を発する。
 三十七才で始めたスペイン語学校は強度の緊張感をもたらし、授業中はいつも手に汗がじっとり。緊張で背筋がいつもピンと張っていた。それに比べると、仙台の学生さんとの二人勉強会は慣れると少し楽になった。
 私が言った。
 「昔、テレビに出た時ね・・・」そこまで言ったら
 「君、ウソをつくんじゃない。あんなに約束したでしょう、ウソをつくなって。ホントのことを必死で主張する、それが語学力を高めるコツなのに」
 「ウソじゃないですよ、ホントですよ・・・」
 彼は首をふり哀れみの顔になって聞いた。
 「じゃぁ、何という番組なの? どんなタイトルなの?」
 「新しい女の生き方」と私が言ったとたん「ファッハッハッハ」と、大声で天井を見上げて笑いころげた。さんざん笑ったあと
 「もう、あなたとの勉強会は終わりにしよう。僕との約束を守れないのだから、無駄だ」
 それから、教室で出会ってもウソツキという軽蔑の視線を私に投げて、私をさけるようになった。

 世の中には、様々な体験をした人がいる。だからまずその人の話に耳をたかむけようと、私に気づかせてくれたのは、初めて非常勤講師をした中学校でのことだ。
 私は行ったことのないパリの話をトクトクと授業中にした。授業が終わったら誰かがこっそり「A君ね、夏休みにパリに行っていたんですよ」と教えてくれて、私は真っ青になった。
 ペルーの天野美術館で、天野美代子さんに「皇太子に差し上げたカメは元気かしら?」と聞かれて「なかなか皇室の方とはお目にかかれませんが、チャンスがあったら聞いておきます。」と答えておいた。
 日本文化振興会から社会文化功労賞を授与したいと言われた話を、ゴルフ場のティータイムの時にしたら、一緒にコースを回っていた織り染め作家が「私、そこから国際芸術文化賞をいただいたわ。今なら断るけど、あの頃は何も知らなかったから・・・」
 Rメソッドのことを書いた文の中にででくるジョージタウン大学で英語を学ばれた方から「ジョージタウン大学はいい大学です。Rメソッドのことは知りませんでした」と知らせてくれた。
 どんなことも、ウソと決めつけないで〈そういうことがあるかもしれない。くわしく教えて〉と耳をかたむけたいと思う。
 事実は小説よりも奇なり、なのだから。
 さて、今年もどんな体験をもった方が、新しい生徒として来られるか、とてもたのしみだ。五月からがはじまりです。
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