エッセイ目次
 

No110
1998年6月4日発行


韓国で一番必要だった言葉は「ちょっと待って下さい」

 五月四日は〈キミコ・プラン・ドウ十周年記念パーティー&ありがとうコンサート〉だった。翌日は〈八〇歳の母が絵を描いたーあれから五年ー展〉の最終日。そしてその翌日は四日間の予定で韓国ソウルへ〈キミ子方式海外実践ツアー〉の出発だった。三泊四日、ホテル代込み、四三九〇〇円也。
 五月六日、肌寒いがまずまずのお天気。午前十時半、成田空港にメンバー五人が青会わせした時、「忙しさをくぐり抜け、やっとここまでこぎつけたね」と安堵した。
 五人の内、杖をついている多部田百子さん、膠原病の川合京子さん、私も二週間前に階段をふみはずして足首をネンザして障害者。まともな身体の人は、宇都宮の永田ひろ子さん、カメラマンをかって出てくれた、茅ヶ崎の小野寺ちさ子さんだけだ。私がまとめて白画用紙、ハサミ、ノリを持ち、ソウルで絵を教えるための水彩道具はそれぞれ五人分荷物に入れているはずだ。
 今回の実践ツアーは〈小学校の先生〉と〈大学院生〉〈絵画塾の院長たち〉その三カ所で、絵を教える予定だ。
 「沖縄より近いのね」と言っているうちにソウルへ。
 「ソウルは夏のように暑い」と出発の前日に手紙が来ていたが、防寒用の衣類も旅行の荷物にしっかり入れていた。
 私たちは乗客の最後に入国をすませロビーへ。出迎えの宋さん、具さんが心配そうに走り回っていた。
 ソウルはさわやかな夏だった。
 久しぶりの宋さんはうすいブルーの超ミニスカートのスーツに白い模様入りストッキングでビッチリ決めていた。髪は胸まで伸びてパーマ。日本の都立大学の大学院、そして板倉研究室で研究していた頃とは別人のように晴れやか。具さんは都立大国際交流会館で、月に三回急ピッチで〈木のある風景〉までふたりの子どもと絵を描いた。彼女はふっくらと幸せそうに落ちついていた。
 私たちが泊まるホテルはソウルの中心地、明洞にあった。南大門市場も近い。
 宋さん、具さんは私に聞く
 「韓国で、何を教えてくれますか?」
 「はじめての方たちだから、三原色の色づくりにします」と答えると
 「キミ子先生それはダメです。韓国の人はせっかちです。易しいものには満足しないんです。もっと難しいテーマがいいです」と二人共、口をそろえる。
 「〈木〉なんか描いてはどうでしょう?」と宋さん。
 「ペンペン草、ステキでしたよね。あれ丁度、咲いているんだけど、この近くにないかしら」と具さん。
 ペンペン草はむずかしい。ニュージーランドの英語学校で、〈色づくり〉の翌日〈ペンペン草〉を描かせたら十人中三人は未完成で、翌日から来なくなった。その時の苦しそうな韓国人やニュージーランド人の顔まで浮かぶ。
 「せめて〈もやし〉にして下さい。〈色づくり〉だけでは絶対に満足しませんから。南大門市場散歩の時にもやしを見つけましょう」と、お二人は打ち合わせてあったかのごとく、三原色での色づくり反対論者だ。
 宋さんは日本で仮説実験授業を研究テーマにした人、具さんはキミ子方式体験者、その二人の提案だ。
 〈三原色での色づくり〉の偉大さを知らないのは、キミ子方式の偉大さを知らないのと同じだと、日本でなら絶対説得するのに、
 「絵のモデルにふさわしい〈もやし〉が、市場で見つかったらそうしましょうか。〇号の筆は私が二十本、他の三人は五本づつ持って来ているはずだから三十五人までは絵を描くことができます。」
 「ワァーイ、よかった!」と具さんは手をたたいて喜んだ。
 〈韓国の人に、すぐにキミ子方式のすばらしさを知ってもらいたい。そのために最も効果的なテーマは?〉と考えてくれているのはありがたいのだけれど、良い〈もやし〉がなければいいと思った。
 残念ながら(?)、南大門市場で〈もやし〉が見つかり、翌日ホテルへ届けてもらうよう交渉してくれた。
 その〈もやし〉は、細くて、長くて、曲がっているが、根、豆、葉がしっかりついている。一袋は両手で抱える位の量。明日の二つの講座に十分。ハサミも二つ買った。
 ○いよいよ授業
 二時から、鉄山初等学校の先生たちに絵を教えるために、十二時半に迎えのワゴン車がホテルに来るよう、前日、宋さんが手配してくれていた。ところが何度も道を間違えたらしく、小学校に着いたのは二時十分前。
 小雨の中を傘をさして、宋さんが小学生と一緒に校庭で待っていてくれた。彼女は今日も又、真っ白なミニのスーツ上下でステキだ。
 広い地面のグランドがあり、二階建ての校舎があり、日本の小学校の作りと似ている。「校長室へご挨拶」と校長室に通されて、名刺交換。校長先生は男性で、春らしい白っぽいベージュ色のスーツ。
 「お茶でも・・・」と言われるが、五分前なので、急いで会場の教室へ案内してもらう。校長先生と歩く廊下で行き交う小学生は、校長先生を見るとスカッと最敬礼。どの子も私には視線を会わせない。
 遅刻ぎみの私は、普段なら廊下に展示している子どもの絵を、どんな絵を描いているのかなぁと見るのに、わき目もふらずに教室を目指す。
 廊下のつきあたりのちょっと大きい教室、その教室は家庭科室か理科室か、それとも部屋の隅にイーゼルがあるから図工室か、本もあるから図書室なのか、ともかく特別室のようだ。大きなテレビと移動する黒板に「Let・s enjoy kimiko method」と、大きく書かれた紙が貼ってある。
 教室の入口の窓側にはマットが敷いてあって、座り机が用意されていた。
 座り机でもやしを描くのは大変だから、隣りの教室で、毛糸の帽子を描くグループに分かれようと瞬間で判断し、メンバーに伝えると「色づくりはしないの? 色づくりがキミ子方式の基礎なのにまずいんじゃない?」と川合京子。毛糸の帽子は三個持って来たから、三つのグループにしよう。さっそく隣の部屋を〈毛糸の帽子〉を描くために配置する。二人用の机の高さは三段階あった。十八人は毛糸の帽子を描けそう。
 ここは六年生の教室で、子どもたち二、三人が机の中の道具をとりに来たがのびやか。それなのに、壁にかかっている彼らが描いたと思う絵は、あまりにも幼い。工作も。
 絵の中に豆が貼ってあったり、版画、色紙の切り絵、クレヨンで描いた絵、どれも八つ切以下の小ささ。
 廊下に貼ってあった額入りの絵は、教室の絵より上手だから、選ばれた作品なのだろうか。
 特別室で、キミ子方式の話をして、もやし・イカ・毛糸の帽子のビデオを見てもらった。ビデオの中に「やまぶき色」というセリフがある。通訳の宋さんから「やまぶき色って何?」と質問された。
 もやしを描く教室と毛糸の帽子を描く教室に分かれた。私と多部田さんはもやし組。
 先生たちが用意されていたパレットは、外側は黒、内側は白いホーローのものだった。そのパレットの小窓に二十四色の絵の具がこんもりと出され、固くなっている。筆も〇号は皆無。絵の具も筆も画用紙も、私たちが持参した道具を使ってもらうことにする。
 できあがったもやしの絵のまわりを切って構図をとり、台紙にはって出来上がり。それを黒板に続々とはる。ところが〈もやし〉を描いたあとにトイレにでも行ったのか、四、五人いなくなる。〈勤務時間内の校内研修って、こんなものかもしれない〉と思っていたら、何ととなりの教室に〈毛糸の帽子〉も描きに行っていたのだ。
 となりの教室でも、通訳なしで、いい感じで描き進めていたら、途中から続々と描く人が参加してきた。その中でも、うんと遅れてきた人は「編みあがらない毛糸の帽子」というタイトルにしてもらったそうだ。
 なるほど、せっかちな韓国人という意味がわかった。情熱的な人たちと言うべきか。 「キミ子方式の基本は色づくりで、それを描いてもらう予定だったのですが・・・」と言うと「いや、色づくりじゃ満足しない」と小学校の先生たち。
 もやしの絵二十三枚、毛糸の帽子十四枚。このうち両方描いた人、五、六人。
 授業で生徒たちにキミ子方式を教えてもらうには、モデルもいらず、筆はなんでもいい〈色づくり〉をやっぱりやるべきだった。先生たちが絵を描くことに満足していても、もやし買ったり、〇号の筆をそろえたりしないだろうなぁと、ちょっと後悔した。
 ○次の会場は
 夕方六時からの授業のために、小学校から一時間ほど高速道路を飛ばして、海側にある仁川教育大学校へ向かう。宋さん運転のデラックスカーに五人とも乗りこんだ。ポリスの前では一人隠れる約束だった。
 仁川教育大学校では、たくさんの美術教育の先生たちに紹介された。大学教官や教官室は世界共通なのだろうか、日本にいるような錯覚。
 大学では、黒画用紙と〇号の筆がばっちり用意されていた。
 大学院生と教師たちが会議室風のマホガニーのどっかりしたテーブルと椅子の部屋に集まっている。黒板とテレビ。立ち見が出るほどの人だ。机につけない人は出窓で立ったまま色づくりをしてもらうことにした。川合京子担当。
 ここではキミ子方式の説明の時間をたっぷりとる予定だった。しかし、みなさんが私の説明も終わらないうちにもやしを描きはじめたら、二人の教官が私をとりかこみ質問ぜめだ。多部田さん永田さんに授業はおまかせ。
 「なぜ、三原色なのか?」「なぜ、もやしなのか?」「床に座って描くのは日本の常識か?」「部分から全体に描いていって、バランスが悪くならないか?」「描き順はなぜ必要か?」などなど。そして「ビデオと本『三原色の絵の具箱』と『絵を描くということは』を翻訳しよう」とメガネの似合う金延姫さん。
 ここでも、色づくりを描いた人が十五色つくったところでいなくなった。
 「この人たち、途中なのにどこへ行ったの?」と担当の川合京子。
 〈もやし〉を描いた人四十二名。〈色づくり〉をした人五名。両方描いた人四名。謝礼金二十万ウオンいただく。
 夜ホテルのロビーで感想文を宋さんに日本語に訳してもらう。好評でよかった。
 ○三日目、絵画塾の塾長や 学院長たちと
 今日の通訳は、大阪教育大学大学院で美術教育を勉強した金芝均さん。塾がやとった通訳だ。私も具さんに通訳をお願いした。
 通訳の金さんが「キミ子方式の話は、よく日本の学会で話題になります。先生の『宇宙のものみんな描いちゃおう』のもやしのところまで読みました。」と勉強している様子。
 カラフルな送迎バスで、ソウルの夕方のラッシュの中を一時間強かけて、シンキル美術学院へ。
 四階建ての間口二軒ほどのビル。左右は商業ビル。都会の住宅事情はなかなかきびしいものがある。狭くて急な階段の壁には絵画作品。どれも額縁入りだが四つ切大かそれ以下の小ささ。小学校の作品よりも芸術風。
 午前中は五才~七才までの百五十名の幼児がきているという。一番広い部屋には石膏像がおいてあったり、石膏デッサンあり、デザイン画あり。垂れ幕には「キミ子方法とは何か」のハングル文字。今日は、美術教育協議会・教育研究会の分科会としてが開かれた。
 大学からもらってきた黒画用紙や〇号の筆があり、昨日よりも太くて立派なもやしも用意されていた。ところが、昨日、私を取り囲み質問ぜめにした金延姫さんに運搬を頼んでいたビデオテープや本が届いていない。連絡もないそうだ。大変!。
 さみだれに人が来る。美術学校や絵画塾の校長たちだ。キミ子方式の資料が全くなくて、キミ子方式の話をするしかない。私が語る、通訳が訳す、ついにキミ子方式体験者の具さんが大活躍で説明してくれる。三十分ほど話し、ビデオがないので「トンガ方式(一枚の画用紙に複数の人が一つづつ色をつくって描いていく)で、色づくりするしかない」と予定変更。机の配置も六つのグループになるように変えた。グループで一枚の絵を描いてもらう。グループに一つのパレットと一本の筆で、一人一色作ったら次の人に筆を渡す約束。そして、三原色と白でたくさんの色を作ろうと説明した。
 しかし、あっと気がついたら、四人共がそれぞれの太い筆とパレットを出して、競い合うように一枚の画用紙に色づくりしているグループがほとんど。約束通りのグループはたった一つ。遅れてくる人があとをたたない。そこで一つのグループになってもらう。
 講座開始一時間後に待望のメガネの金延姫さん、本とビデオを持って登場。七枚の絵が出来上がって、その作品を黒板にはり、ビデオを見てもらった。
 「幼児にとって絵を描く意味は?」「材料費がかかりそう」「何才からやれるか?」などと、また質問ぜめにあった。
 「何テーマやると、生徒はみずから描き出せるようになるか?」と聞かれたので
 「十五テーマくらいかなぁ」と私。すると間伐いれずに
 「その十五テーマは何と何か?」とメモを始めた。「十五テーマを教えに韓国へ来てほしい。いくら払えばいいか」。そこへ「待って!」と声をかけたのは昨日私を質問ぜめにした金延姫さん。
 「まずは、本とビデオを翻訳して、それから韓国へ来てもらいましょう」。
 その後、塾長たちの質問。、具さん、メガネの金延姫さんの熱弁。ハングル語だけが飛び交い完全にハングル語の世界。
 「何を話しているの」と塾の通訳、金芝均さんにこっそり聞いたら彼女は苦笑しながら 「キミ子方式の自慢をしています」と教えてくれた。
 韓国の人は熱い!。つられてか私たちも日本にいる時よりも何倍も元気者になっていた。私も多部田さんも足の痛みも忘れていた。
韓国で一番必要だった言葉は「ちょっと待って下さい。」と「ゆっくり、ゆっくり」だった。そのハングル語は、今でも口をついてでる。
〈おわり〉
p.s 今、原稿の校正を電話で話していたら、割り込んで電話が入った。
その電話は韓国からで、「夏までには本の翻訳をしたいので、契約をしたい。明後日に日本に行く」というものだった。これらかの展開が楽しみだ。

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