エッセイ目次

No20・21
1990年12月4日発行

   
   


リンゴの思い出


   
   

 ギックリ腰になって三日目、ヤマギシズム学園高等部に〈ニワトリ〉の絵と「畑の作物」の絵を見るため、三重県に行った。翌日は福岡の養護学校で公開授業をやる予定だった。
 名古屋空港で、福岡に飛ぶか東京へ戻るか決断の時だった。けれども、行く先が肢体不自由児の養護学校と聞いていたので、私も今や肢体不自由人である、偶然にノリたくなった。その学校には車椅子があるだろう。行けばなんとかなる。
 腰痛の痛さに耐えた五日間、高崎(群馬県)・東京・三重・名古屋・福岡と、大移動したことになる。かかった医者は四人で五回。
 五日目、福岡から羽田に着いた時は、ホッとしたせいか頭痛までしてくるようだった。その日は朝食をとったきりだったのを思い出した。車で迎えに来た息子に 「何か、たべものあるかしら?」と間いたら「誰かからリンゴが送られてきていたよ」ということだった。
 自宅に戻って、リンゴの送り主が見目さんであることを知った。
 「この人のリンゴこそ、キミ子方式通信講座をつくるきっかけになったのよ」と息子に話し始めた。
 何年前だろうか。まだ著書がでていない頃だったから1981年頃だっただろうか。
 ある日、一通の手紙が送られてきた。その手紙に 「私は今、子育ての真っ最中でキミ子さんに絵を習いに行くことが出来ません。つきましては通信講座をお願いしたいのですが・・・」と、自分の描いた絵と返信用の封筒が入っていた。私は返事を書いた。ほどなくして、飯田からリンゴが送られて来た。そして、そこにそえられている手紙に 「これは通信講座の授業料です。飯田は私の故郷で、このリンゴは絶対においしいリンゴです」と書いてあった。
 私は、そのおいしいリンゴをいただきながら 「情熱は、どんな困難も突破するんだなあ。リンゴを食べてしまったから、これは責任をもって通信指導しなければ」と心に警ったものだった。

   
   

○仲良くなれたような
 福岡での養護学校高等部で、キミ子方式を教えているのは、キミ子方式通信生の斉藤加代子さんである。その斉藤さんが教える四人の生徒に、ぜひ直接キミ子さんの授業を!という希望で、福岡へ行ったのであった。4人には、斉藤加代子さんの母上が作ったダイコンを描いてもらった。
 手足が動かず、ヘルメットに水彩の筆をとめて、それで色づくりをした少年もいた。たのしい授業がおわって、肢体不自由な生徒逮に腰痛の同情をされた。自分の体が思うように動かせない私と、5人の生徒達とがよりいっそう仲良くなれたような気がする。
 斉藤さんを含め、現在、通信生は約100人いる。北は北海道から沖縄まで、全国にまたがっている。
 斉藤さんは、以前にもキミ子方式をやっていたのだけれど、通信生になったことで、自分が基礎から一歩一歩進めるように、養護学校の生徒にも、一つ一つ課題をやっているのだった。通信詰座のモデルの教材として送っている「毛糸の帽子」を、養護学校の生徒たちの授業に使っている。

   
     キミ子方式をなんとか正しく普及させたいと、日本中かけづり回ってもタカが知れている。その時、リンゴを送ってくれた見目さんのことがひらめいた。 〈通信講座をつくろう〉
 通信護座を愛護していれば、いつでも質問できるし、通信生が学校の先生なら、その学校に優先的に授業をやりに行ける。 その思いが今、実現したのだ。
 それにしても腰痛はきつい。リンゴはおいしいけれど、呼吸が困難になってくるほどだ。
     
     

TOPへ