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"絵画教室・生徒募集"の広告を出すために、広告屋さんに来てもらった。 遠くを見つめる目をしたと思ったら
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1985年5月、仙台から一時間半位かかる、リアス式海岸にある、歌津という町に講演会に行った。その時に、菊地先生はお嬢さんと二人、リュックを背負って参加された。微笑みを絶やさず、黙って静かに人の話を間いていた。
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東北福祉大で、キミ子方式が広まったらと期待し、菊地先生も、キミ子方式こそ福祉大にふさわしいと意気投合したのに、菊地先生がなくなり、それっきり福祉大とも縁が切れたと思っていた。 それなのに、その菊地先生から、〈もやし〉の絵を教わった人が目の前にいる。 「菊地先生、キミ子方式なんて言わなくて、ただ〈もやし〉を描いたんですけど、それを考えた人が松本先生だったとは・・・」「ほんものそっくりに、すごく上手く描けちゃったんですよ私」 キラキラした顔で、もやしの描き方を、新聞杜と広告昼さんに説明し始めた。 私は歌津の真っ赤な夕焼けと、岩の間をかいくぐり、いそいで陽に入ってしまった、菊池さんのジャンパ−と菊池さんの一生とが重なり胸が諸まった。 |
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