エッセイ目次

No24
1991年4月4日発行

   
   


モヤシと東北福祉大


   
   

 "絵画教室・生徒募集"の広告を出すために、広告屋さんに来てもらった。
 キミ子方式に全く関心がない人達に、キミ子方式を理解していただかなければならない。これが、なかなか難しいことだ。
 相手方は、新聞社と広告屋さんとライターの三人
 「普通の絵の描き方ではないんです。三原色だけで、下描きをせず、部分から全体ヘ・・・」と説明していく。三人共、ほとんどイメージ出来ないのが顔に表れている。
 「三原色と白で色をつくる授業をしたあと、始めに〈もやし〉を描いてもらうんです・・」
 「ハァ!もやしですか?」
 「ええ、次は〈イカ〉なんです」と私。
 「イカ!」と大声になる。
 「そう、動物の代表でイカを描き、人工物の代表で〈毛糸の帽子〉を描きます」
 ライターさんのペンを持つ手が、眠るように、ヒッチがスローになった。

 遠くを見つめる目をしたと思ったら
 「私、学生時代に〈もやし〉描いたような気がする」と言い出した。 「キミ子方式を考えたのは1973年で、本になったのは1982年、今から9年前だから・・・」
 私は、この方の年齢を考えていた。小学校の時かなあと思いをめぐらしていたら
 「大学の時、〈もやし〉習ったんです。社会福祉学科だったんですけど、菊地先生に・・・」
 「えっ菊地先生? 東北福祉大?」
 「そうです」
 「きゃ− 思い出した!」
 私とライターさんは大騒ぎ。他の二人は、旧友の再会を見守る複雑な顔。
 「菊地先生、心臓を患って亡くなられたって、卒業してから聞いたんです。もやしを黒い画用紙の上に、根っこから描くですよね。すっごくうまく描けて、私、絵の才能あったんじゃないかと思うくらいに。ホントなんですよ」とライターさんは興奮して説明し始める。
 「三原色でしたね。菊地先生の授業って変わっていて、ヘんなことぱっかりやるんですが、突然、水彩画で〈もやし〉でしたものね」
 もう仕事どころの騒ぎじゃない。
 私は私で、懐かしい菊地先生の顔、パートナーの顔、お嬢さんの顔を思い出す。

 

   
   

 1985年5月、仙台から一時間半位かかる、リアス式海岸にある、歌津という町に講演会に行った。その時に、菊地先生はお嬢さんと二人、リュックを背負って参加された。微笑みを絶やさず、黙って静かに人の話を間いていた。
 その年の十月に亡くなられたことを知ったは、翌年一月のことだった。
 1987年6月に『菊池直明先生追悼集』が送られてきた。その表紙は「もやしの絵」だった。
 1988年、毎年行っている歌津町での講演会と実技講座は四回目になっていた。
 この年、菊池夫人が参加されることになった。講演が終わるや、小さな声で
 「主人の遺言は〈自分の骨を海に流してほしい〉ということだったの。でも、日本の法律ではそれが出来ないことがわかったの。でも、それがずっと気がかりで。それで骨が無理なら、主人の最も大事にしていたジャンパーならどうだろうか。これなら法律にふれないわね。どこの海に流したらいいのか、この三年考えていたの。
 そして気がついたんです。主人が最後に見た海。最後にもっとも情熱を燃やした授業、キミ子方式に出会った海、歌津しかないと。
歌津で、私が絵の会に参加し、歌津の海に流そうと・・・」言った。
〈ワカメ博士〉と私たちが呼ぶ漁師さんの案内で、六〜七人は、サッと車に分乗する。
 何時頃、どこの海がいいか、ワカメ博士の先導車に続くしかない。  ワカメ博士は館崎の岬に案内してくれた。
 今まさに、太平洋に向かって、陽が沈む時であった。
 菊池夫人と二人の娘さんが、そ−っと海に、モスグリーンのジャンパ−を流す。普段、いつも着ていただろうジャンパーが海水で、もくっとふくらんで、まるで人が入っているように生々しかった。
 あっちの岩、こっちの岩とウロウロしているように見える。しかし、陽の沈む速度にあわせるかのようにだんだんと沖に進んだ。
 その時初めて、引き潮になっていることを知った。
 菊池夫人と娘さんが、岸にへばりついて沖を見つめる。
 私たちは、その背とその向こうの菊池さんのジャンパーの行方を見つめる。
〈さようなら〉
 歌をうたいたい。さよならの歌をうたいたいと思った。でも、でてこない。
 誰かが小さく賛美歌をうたった。それぞれがただ黙って、賛美歌を間き、夕陽の沈むのを見とどけた。

 

   
     東北福祉大で、キミ子方式が広まったらと期待し、菊地先生も、キミ子方式こそ福祉大にふさわしいと意気投合したのに、菊地先生がなくなり、それっきり福祉大とも縁が切れたと思っていた。
 それなのに、その菊地先生から、〈もやし〉の絵を教わった人が目の前にいる。
 「菊地先生、キミ子方式なんて言わなくて、ただ〈もやし〉を描いたんですけど、それを考えた人が松本先生だったとは・・・」「ほんものそっくりに、すごく上手く描けちゃったんですよ私」 キラキラした顔で、もやしの描き方を、新聞杜と広告昼さんに説明し始めた。
 私は歌津の真っ赤な夕焼けと、岩の間をかいくぐり、いそいで陽に入ってしまった、菊池さんのジャンパ−と菊池さんの一生とが重なり胸が諸まった。
   
     

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