エッセイ目次

No28
1991年8月4日発行

   
   


過ぎし日の思い出


   
      駅前には、朝陽があたる喫茶店があるはずだ。
 そこで、朝刊を読みながらコーヒ−を飲む。時には、通勤のためにはりきって駅へ急ぐ群衆を眺める。旅に出た時の私の楽しみである。
 ところが先日、訪れたN市は、探せども、駅前に喫茶店らしきものがない。
 駅前広場をぐるりとまわり、駅の構内にあるかもしれないと探したがみつからない。朝の七時頃、オープンしているのは、吉野昼の牛丼屋さんくらいだった。
 一人で散歩している六十代の男性に声をかけた。
 「すみません、この街に今の時間で開いている喫茶店ありませんか? モーニングサービスをしているところを探しているのですが」
「喫茶店はないねえ。吉野屋の牛丼をどうぞ」と、まるで牛丼屋さんの店員のように、なめらかにセリフがでて、赤々しい看板の牛丼屋さんを教えてくれる。
 「朝から牛丼かぁ、食べる気がしないわ」
   
   


 牛丼と言えば、一年浪人してやっと入学できた武蔵美(武蔵野美術大学)に通っていた時、吉祥寺の駅前の牛丼屋さんに思い切って入ったことがある。今から三十三年ほど前である。一日の食費が百円使えない時のことだ。私にとっては思い切った贅沢だった。
 牛肉のキレはし、全部つないでもまともな大きさにならないくらいの小切れが四つくらい丼にのっていた。しかし、牛肉のかおりいっぱいの汁がごはんの全部にしみていて、牛丼のすばらしさに感動したものだ。あの時の感動を壊したくない。あの時は、私の身も心もスリムだった。
 今浮かぶ、牛丼のイメージは、エネルギーのかたまりだ。
「牛丼もいいよ」灰色の上下制服っぽい服をきたおじさんは、静かに言った。
 「朝からじゃねえ」と私。
 「朝から牛丼も、なかなかいいもんですよ。行ってごらんなさい」と言うおじさんのやさしさに
「ありがとう、そうしてみます」と牛丼屋さん目指して歩いた。
 牛丼屋さんのガラス戸に"朝定食"のメニューが貼ってあった。
〔玉子・納豆・ノリ付き・三五○円〕〔焼き魚定食・四五○円〕
 その一行を見ただけで、感激してしまった。納豆が大好きだからだ。納豆付きの朝定食を出すからと、通い続けたホテルもある。納豆は、味に裏切られることがないからだ。
 お店の中は、男たちの熱気に満ちていた。駅前のガランとした感じが信じられないくらいだ。
 カウンターに座り、朝定会を注文した。
 私の目の前の若い男性は、牛肉どっさりのっかった牛丼を食べていた。その姿は、朝に牛丼もなかなかいいと思った。
 運ばれた定食の納豆に、生玉子を入れて、あったかいゴハンの上にドバッとのせる。味噌汁も、おつけものも、三五○円とは信じられないくらいいい味だ。
 拾いものをした。吉野屋の朝定食ファンになった。ちなみに、焼き魚定食の焼き魚は、赤いシャケであった。これもうまそう。


   
     大阪のホテルに行った時、ホテルの入口近くに看板が出ていた。
"玉子10円・トースト10円・サラダー10円モーニングは○○ヘ"
 昔の話ではない。最近の事だ。それなのにこの値段。私の好奇心をおおいにゆさぷる。
 その看板を見たあと入ったホテルのフロントでチェックインした時、フロントマンに
 「明日の朝食はどういたしましょう?」と開かれた時に即答していた
 「結構です!」
 翌朝が待ちどうしかった。30円の定食が今時あるのだろうか。
 翌朝早々に、ホテルのすぐ隣のその喫茶店に行った。その前にしっかり看板を確認したのは言うまでもない。30円の朝定食をだす店にしては活気がない暗い店だ。そこで働く若い女の子も、不幸そうで無愛想に見えた。
 注文の前に聞いた。
「あの−ほんとに、トーストや王子10円なんですか?」
「そうです」ニコリともしない。
 なんとも不安なのは、私の他に客が一人もいない。
 ここは駅のすぐそばの店。窓の外は通勤客が通りすぎる姿が見える。
 待望のモーニングセットを見て、悲鳴をあげそうになった。
 確かに玉子は付いている。しかしこんなに小さい玉子が、この世にあったのかというくらい小さい。トーストは薄い薄いトースト半枚を二つに切ってある。サラダはキャベツの千切り一五本くらいと、これ以上薄く切れないと思われるキュウリとトマトのうす切り。なるほど、玉子とトーストもサラダも付いている。そしてコーヒーの値段は三五○円なのだった。つまり、三八○円のモーニングセットということになる。
 くやしい!だまされた。だからお客がいないんだ。三五○円のコーヒ−がとてもにがく感じられた。
 それに比ベ、関東の吉野屋の朝定食の何と豪華なことよ。私は出会う人みんなに宣伝して歩いた。
 「そうそう、あれいいよね。吉野屋って二十四時間あいてるのよ」
「あそこのつけもの、ホントにいい味」と情報がどんどん入ってくる。
「あそこいいよね。おかわり自由だもんね」と言う人があって
「え−っ知らなかった。もしおかわり自由ならおかわりして、もっとゴージャスに食べられたのに!」
 またまた、研究の余地はあるみたいだ。これからも情報収拾をしなければ。
   
     

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