エッセイ目次

No34
1992年2月4日発行

   
   


インドヘナの村で

 

   
   

 メキシコシティからバスで一時間半ほどに人口、十九万人のクエルナバカという街がある。
 そこのスペイン語学校に入って一週間目の土曜日、あこがれの遠足の日だった。
 クラスメート五人の他に、お客さんが飛び入り参加した。
 ニューヨークから来た、建築家の夫と画家・彫刻家の妻の夫妻だ。
 私のことを「キミ子も日本の画家だ」と、私の担任のホセフィーナが紹介したものだから、彫刻家のダイアナは、目を輝かせてハンドバッグの中から、自分の作品の写真入りパンフレットを取り出した。
 「私のこの作品はニューヨークのホテルにあって、この作品のパンフレットは、ドイツ語、フランス語になっていて‥‥」と英語で夢中に話し始めた。
 やっと価値のわかってくれる仲間に出会えたと喜んでいるふうであった。
 <違うのよね。私の仕事とは全然ちがうのよ>と思いながら、その作品を眺め「ボニータ(美しい)」とつぶやいたけれど、心の底からの声ではない。
 私の仕事は、絵が描けないと思っている人たちに、絵を教えることなんです。自分が絵を描くのではなく、絵を描かせることが、私の喜びなのです。と言ってはみたが、話はまったく噛み合わない。

 

   
   

 今日の遠足のメインは、ポテストラカン、ティヤカン、トラスカパカンなどの村の市場や教会を見たあと、最後はナワ族の村、テポストランへ行った。
 そこでテポステコ山へ登るグループと、市場で買い物をするグループに分かれた。 アメリカ人のダニエルとドイツ人のグルテル、オランダ人マリアンヌと私が登山組になった。山の上にはアステカ時代のピラミッド型神殿があるはずだ。
 人口、八千人のテポスコ。山の下に小さく集まった古代文化の村だ。
 この村にくると、インディオの人々が目立つ。山の麓にはカラフルな織物や工芸品。手作りのトルティージャさんが並ぶ。

 暑い日だった。マリアンヌはお店に入って、コカコーラを買う。
 コーラの入ったガラス瓶は高価なので、お店に返さなければならない。コーラを買うと、ビニールの袋をもらい、それにコーラを入れ、しばり、ストローを差す。それをもって登山だ。
 私を除く3人は二〇代の若者。彼らは足が早い。
 登山の途中で、ほとんど裸で裸足のインディオのおじさんに会う。
背中には薪をしょっている。
 これから人の集まるところへ売りにいくところなのだろう。体格から顔付きまで、今は亡き私の父ににていた。
 メキシコは一五二一年から三○○年間スペインの植民地だった。その後、独立戦争があり、一九一○年にメキシコ革命があり、一九二二年にメキシコ壁画運動が始まった。
 声明文はシケイロスが作成し、目標は「万人のための教育と闘争の芸術」を目標としたものだった。
 メキシコシティの国立宮殿をはじめ文部省、国立予科高等学校、コステル宮殿などに、メキシコの歴史、先住民とスペインのカトリック支配者、近代化という資本支配。それに窮追する農民や労働者の姿を、これでもかと描いてある壁画が並ぶ。
 だが、そういった壁画は人々にどれだけの力を与えたのだろう。
 絵は結局、無力だったのではないか。私の目の前には、栄養の足りない、衣服や靴のない、学校に行けない人が、まだまだたくさんいる。

 

   
   

 道端に放心状態で座る。インディオのおじさんや子ども達を見た時、キミ子方式で絵を教えてあげたいと思った。
 絵が描ける、彫刻が出来てそれを楽しんでる人と、それと全く縁がなく、楽しみを知らない人とは、お金がある人とない人の差のようにはっきりしている。
 ニューヨークの彫刻家は、どうしてあんなにはりきって、作品の写真を見せたのだろうか。その写真を見た時、すぐに思ったことは、多くの庶民は、まして、目の前にいるインディオの人々は、その作品のあるホテルには一生縁がない。
 その作品を見られる人は、高級ホテル代を支払える全く一部の人々にすぎない。
 芸術家という職業は、いつだってその時代のお金持ちのためのなぐさめものだった。
 キミ子方式で、身近の植物や動物や風景を絵に描いたら、描いたものが愛しく感じられるだけでなく、絵を描いた自分に自信を持つ。自分のすばらしさに気づくだろう。

 一時間ほど、岩山をひたすらハアハアしながら登った。自分の体とは思えないくらい呼吸が苦しい。
 テポステコ山からは、眼下にテポストランが見え、遠くに山々が連なる。その絶景の展望が見られるところに、一四世紀のマステカ時代のピラミッド型神殿がある。その圧倒的な建物と周囲の風景に心が震えた。
 今までの絵は、めずらしいもの、遠くにあるものを描いてきた。その結果、北海道の片田舎にいた 高校生の私は、東京へ、パリへと憧れ、父や母と住んだ土地を捨てた。
 遠くの都会に文化があり、自分の住んでいるところは何もない。ただの村だと思っていた。
 この村に住んでいる人々が、村に住んでいることを誇りだと思ってもらうために、絵を教えたいと 思った。

 

   
     

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