『バカ正直』?『非常識』?
『方法を変えれば、誰でも絵が描ける』と気がついて、たくさんの生徒達に実験してもらった。家出して二年、一九八二年に『本』になった。あちこちに講演にいくたびに聞かれる『どうして、そんなことを考えついたの?小さい頃から変わった人だったの?』そう聞かれて突然、思い出したのは母のことだ。母は鳥取の生まれであるが、私は一度も鳥取に行ったことがなかった。私だけでなく、私の兄弟もだ。北海道開拓三代目の私は、祖父母が故郷を捨てるのはそれなりの理由があるからで、過去を捨てられる人であるのを知っている。
幼い頃の事で、はっきり思い出す風景がある。母の膝枕のあたたかさと共に蘇る。小学校入学が私にとってはじめての社会参加だった。それまでは山の中で、家族として出会っていないからだ。
私は日本語を話したはずだった。ところが友達は何故か怒って行ってしまう。訳がわからなくて、淋しくて、学校から帰ると母に訴える。母の膝元で。母は『あなたの考えが正しいです。お友達は残念ながら心の狭い人なのです。あなたはそのお友達のように、心の狭い人にならないように』静かに話してくれた。
今思うと、母も変人だった。『不器用』『バカ正直』『非常識』と、かげ口をいわれていた。 きっと建て前と本音を使いわけられない人だったのだ。私も「建て前と本音」という言葉を知ったのは三十三才の時だった。二十才の若い女性が教えてくれたのだ。その時感動して私は言った。
「一体、そんなすごいこと、誰が教えてくれたの?」
私にも未来がある
八年続いた産休補助教員をやめた私は、私の考えた絵の描き方の実験場として美術学校をつくりたかった。誰だって絵が描けるのだから。年齢は関係ない。週三日くらい、時間も三時間くらいで。
今年は三期生が卒業する。
十代から六十代まで、十人程だ。
卒業制作展の会場で、十代のAさんは母子づれの参観者に語りつづける。
「わたし、ここに来るまで、自分に未来ってないと思っていたの。結婚するしかないなぁって。
でもまだはやいしなぁ、それ意外何も考えられなくて、とにかく未来とか希望とか、自分には関係ないと思っていたの。でも一年ここに来て、絵を描いて、自分にも未来があるって、わかったんです。なんでも出来るんじゃないかって」Aさんは四月からNHK学園の高校生だ。
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