○満足するのはいいことか
本が出てから十年、年々、受講者数は増えてきている。私のおおざっぱのイメージでは、今現在の受講生は、市民六割、教員四割という感じがする。年々、受講する教員の数が少なくなっているようだ。
教える人の数が少なすぎる。そうすると、やはりキミ子方式を教える人を育てなくてはならない。
〈いったいどうしたらいいのか〉そんなことを間々と考えていた時に、『たのしい授業』−キミ子方式とは何か−一九八五年二月号・仮説杜刊)を読み直した。
その中で兵庫県の小学校の先生、貝野 章さんの書いた文章「教えるこころ、見るこころ」に改めて感心した。
〔いい絵ってなんでしょう〕
〔指導者があきらめてはいけない〕
〔満足することはよいことか〕などの小見出しで言かれている。
〔満足するのはよいことか)
「絵をきらいな人に、絵を好きになってほしい」というのがキミ子さんの願いだと思います。上手か下手が、キミ子方式かそうでないかは、絵を好きになるための手段であって、目的そのものではないのでしよう。
満足できるかどうかというのも、簡単には考えられないような気がします。つまり「満足できない」という状態は、全体的に悪いことなのかどうか・・・。今回も満足できない人が何人がいたようです。満足するために、いろいろな方法が考えられます。前回にもいろいろ書きました。(前回の文は省略・松本)
でも、本当に何がなんでも満足しなきやいけないんでしょうか。 Mさんを脱皮、成長させたのは何か。それはひょっとすると、葉っぱまでの落ちこみかもしれない。そう思うと、安易に要求水準を下げたり、仮りの満足を与えちゃいけないんじやないだろうか。そんな気がしてきます。
キミ子方式の指導者の仕事の一つに「はげまし」があります。指導者は一生懸命はげますのですが、キミ子方式自体は、実は「落ちこむように、落ちこむように」と、しかけてあるんです。「誰でも上手に描ける」「忠実にやれば、すぐいい作品が」などど言いながら、裏では、不満を残すというか、そう簡単に事が通ばないようにシカケがしてあります。
それが教材の配列です。
植物−動物−人工物・・・、カッチリ−ベチヤベチヤ・・・、ていねい−いいかげん・・・
前の知識、技術とは相反するような教材を次にもってくるという配列になってます。 「絵の描き方は一様ではないのだ」ということを知らせるためなのでしょうが、わざどおとしいれ、不満を残す。それが次への脱皮のきっかけになるとも考えられます。このへんのキミ子さんの考え方は知りませんが、もしそうだとすると、満足した人はもちろんそれでいいのですが、不満を感じている人の存在も、それはそれでキミ子方式のねらいどおりなのかもしれません。
Mさんは、いつも作品に強い不満を抱きます。いつも途中で逃げ出します。まわりになんどかなくさめてもらって、何とか仕上げて・・・。でもやっぱり不満です。
その不満を残す会に、一番熱心なのがMさんだとしたら、思いきって不満足もいいんじやないかと思います。
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