エッセイ目次

No43
1992年11月4日発行

   
   


どうして こんな楽しい事、教えないの

 

   
   

 私が直接生徒に教えるよりも、先生に教えた方が能率的ではないかと考えて、タクシーを乗りまわし、あちこちの学校に授業をやりに行った。
 そして、先生達に「こうして教えると、推でも絵が好きになります」と絵を描いてもらった。
 ところが、私から教わる先生達はうれしそうに絵を描いても、実際に子ども達に教える人の数が、うんと少なかった。 〈どうして、こんな楽しいこと、教えないの?〉
 今までは、楽しく絵を描ける方法がなくて教えられなかった。でも、今は、方法がある。それなのにどうして生徒違にためさないのか。
 九州での講座の時、女の先生は言った。
 「こんな楽しいことだから、教えたくないんです。教育なんかに使いたくないんです。」
 「エ−ッ!」と私が絶句したら 「わかっていただけないかしら。こんなステキな絵の描き方。もったいなくて・・・」
 そんな発想があったのか。しかし、その発想に対して説得できず、その会に絵を教えに行くことは、それっきり止めた。
 学校の先生は、絵を描けるようにするのが仕事のはずが、あてにできないと思った。だったら、絵を描くことを純粋に楽しんでくれる人として、市民や子どもにも教えようと方向転換した。そして、先生という職業の人には 「教えようと思わず、まず自分が楽しんでください」と主張しはじめた。「学生時代、絵をキライにさせておいて下さい。そうすれば、大人になってキミ子方式に出会い、絵を描く楽しみを知ったら、コンプレックスが大きい人の方が喜びが大きいからいいですよ」とひらき直っていた。
 いかに、誰でも絵が描ける方法を確立しても、多くの人に伝わらなければ、推でも描けるようにはならない。私の主張が証明されない。だから
 「楽しみが満ちあふれたら、きっと伝えたくなります。その方が親切に教えられます」と言うようにした。

 

   
   

○満足するのはいいことか

 本が出てから十年、年々、受講者数は増えてきている。私のおおざっぱのイメージでは、今現在の受講生は、市民六割、教員四割という感じがする。年々、受講する教員の数が少なくなっているようだ。
 教える人の数が少なすぎる。そうすると、やはりキミ子方式を教える人を育てなくてはならない。
〈いったいどうしたらいいのか〉そんなことを間々と考えていた時に、『たのしい授業』−キミ子方式とは何か−一九八五年二月号・仮説杜刊)を読み直した。
 その中で兵庫県の小学校の先生、貝野 章さんの書いた文章「教えるこころ、見るこころ」に改めて感心した。
〔いい絵ってなんでしょう〕
〔指導者があきらめてはいけない〕
〔満足することはよいことか〕などの小見出しで言かれている。

〔満足するのはよいことか)
「絵をきらいな人に、絵を好きになってほしい」というのがキミ子さんの願いだと思います。上手か下手が、キミ子方式かそうでないかは、絵を好きになるための手段であって、目的そのものではないのでしよう。
 満足できるかどうかというのも、簡単には考えられないような気がします。つまり「満足できない」という状態は、全体的に悪いことなのかどうか・・・。今回も満足できない人が何人がいたようです。満足するために、いろいろな方法が考えられます。前回にもいろいろ書きました。(前回の文は省略・松本)
 でも、本当に何がなんでも満足しなきやいけないんでしょうか。 Mさんを脱皮、成長させたのは何か。それはひょっとすると、葉っぱまでの落ちこみかもしれない。そう思うと、安易に要求水準を下げたり、仮りの満足を与えちゃいけないんじやないだろうか。そんな気がしてきます。
 キミ子方式の指導者の仕事の一つに「はげまし」があります。指導者は一生懸命はげますのですが、キミ子方式自体は、実は「落ちこむように、落ちこむように」と、しかけてあるんです。「誰でも上手に描ける」「忠実にやれば、すぐいい作品が」などど言いながら、裏では、不満を残すというか、そう簡単に事が通ばないようにシカケがしてあります。
 それが教材の配列です。
 植物−動物−人工物・・・、カッチリ−ベチヤベチヤ・・・、ていねい−いいかげん・・・
 前の知識、技術とは相反するような教材を次にもってくるという配列になってます。 「絵の描き方は一様ではないのだ」ということを知らせるためなのでしょうが、わざどおとしいれ、不満を残す。それが次への脱皮のきっかけになるとも考えられます。このへんのキミ子さんの考え方は知りませんが、もしそうだとすると、満足した人はもちろんそれでいいのですが、不満を感じている人の存在も、それはそれでキミ子方式のねらいどおりなのかもしれません。
 Mさんは、いつも作品に強い不満を抱きます。いつも途中で逃げ出します。まわりになんどかなくさめてもらって、何とか仕上げて・・・。でもやっぱり不満です。
 その不満を残す会に、一番熱心なのがMさんだとしたら、思いきって不満足もいいんじやないかと思います。

 

   
   

 う−ん、いいぞ。
 この文ができたのは九年前の一九八三年。初期の頃は教えるということにも熱心だったんだ。
 今年の10月に、社会福祉法人・似島学園高等養護部の生徒四十四名に「空」の絵を教えた。
 学園のすぐ前は道路一本をへだてて海だ。船着き場もある。
 船着き場の提防にくっつけるように机を上ベ、文字通り、青空の下で、「空」の絵を描いた。
 船着き場の近くには、父兄や船員さんが見学している。その中にまじって十人ほどの少年も見学している。
 その事に気づいて 「さあ、少年たちも描きましょう」と誘いにいったら、ドーッと逃げてしまった。一人連れもどし、二人連れもどしたが、結局五人に逃げられたことを、描き上がった作品の数で知った。
 一人の−一番背が高い、四角い顔の−青年は、青い色を同じ調子で塗るだけだった。画用紙半分から下は、だんだん色をうすくしなけれぱ、空にならないので、私が直してあげた。 そうすると、彼は 「あ−あ、俺知らね−」と、そっぽむいて、青空を見上げていた。
 私は彼を無視して「ハイできあがり。さあ、サインを描いて」と言うと 「俺、知らん−」とそっぽを向いたまま。
 私は無視して、日付だけは私が書き入れて、現場を離れた。
 そうしたら、日付の下にしっかり自分の名前を、大きな身体を思いっきり折り曲げて、ていねいに、うれしそうに番き入れた。
 「僕、足いたくて、病院に行くから、絵描けない」と朝から何度もPRに来た少年も描いた。
 グラマーな麻美嬢は、空の絵のド真ん中に、大きく自分の名前を、堂々と自信満々に、ピンク色で書き入れた。
 「自分の作品が気に入るとね、大きく真ん中に名前を書いてしまうんですよ。満足している証拠です」と見学している父兄に説明した。
 三十九枚の空の絵は、学園の金網フェンスに、洗渡バサミでとめた。その前に四十四名が並んで記念撮影をした。いつのまにか、逃げた少年達もやってきて、カメラに向かってピースサインをする。
 逃げまわって絵が描けなかった五人の少年たちを財産に、私は又来年、似島学園に行こうと思う。
 教えることは楽しい。絵を描くよりもっと楽しい。その楽しさを多くの人に体験してもらいたいので、これからは積極的に「教え方」に情熱を込めたいと思う。

 

   
     

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