エッセイ目次

No44・45
1992年12月4日発行

   
   


人生交差点

 

   
   

 週三日だけ、時間は十一時から、昼食をはさんで、二時半までの三時間。絵を描いたり、彫刻をしたりする美術学校が〈キミ子方式・アートスクール〉だ。
 私の受け持っていた短大生と同じカリキュラムで、短大生と、我がアートスクールはどう違うかを実験したかった。
 実技の授業時間は短大生の方があるはずだ。だが、進行状態は、アートスクールに比べ半分くらいしか進まない。理由は簡単だ。彼らは全授業時間の半分くらいしか学校に来ない。
 学校に来ていても水彩科の教室に来ない子。教室に来ても絵は描かず英語の予習をやったり、再提出のレポートを書いたりと、水彩実技の時間にそれ以外のことをやっているので、始めからどんどん遅れた。
 年齢は全員高卒の十八才、九人。

 

   
      ○年齢も職業も様々な人達

 我がアートスクールは、五月末が開講日。今年は四期目で八人の生徒がスタートした。
 「月曜日」は川合京子担当、「火曜日」は私、「金曜日」は杉山 操担当となっている。
 今年の生徒さんは、昨年からひきつづきの十九才のT君、二十七才になったMさん、六十九才のSさん。そして一年目はまじめに来ていたけれど、二年目は来たり来なかったりで東北に住む両親を悩ませていたNさん。
 「二年も東京に居たのだから今年こそ田舎に引き上げなさい」と、ついに両親の強いお達し。
 「三年目こそ、まじめにやってキミ子方式をマスターして、故郷でキミ子方式の教室を開く」と決意して五月と六月までは来ていた。
 久し振りに〔草花の絵〕を描いたあと
 「私って、二年前はまったく手が動かなかったんだ。やっと今年調子がでてきたわ」とポソッと言った。
 そうなのだ。なぜ彼女は手が動かさず、目ばかり動かして、おしゃべりをしてしまうのかと、私たち講師を悩ませていた。それを彼女自ら気がついた。そして、明るく美しくなって、アートスクールにこなくなった。そして今、ダンサー目指して、ダンススクールに行っている。


   
   

 今年新人のKくん。
 「今年はよく動く男の子がくる」と楽しみにしていた。私たちのアシスタントに育てようとはりきっていた。そのKくんは、山口県の中学校を中退したナイーブでパワフルな青年だ。下宿も東京都下に見つけ、アルバイトを紹介した。テレビ番組制作会社のアシスタントだ。"アートスクールのない週三日でいい"という約束もとりつけた。
 その彼が、六月早々に「仕事に専念したい」と申し出た。 「うん、いいかもしれない。絵はいつだって描けるから、又その時が来たらやりましょう。」
 Aさんは十六才。制作会社のアシスタントになって去ったKくんよりも若い。
 お母さんを説得し、お父さんを説得し通いつづけている。
 かわいさと、なんともこわれやすいガラス玉のような、そっとしておく時間がまだまだ必要なような彼女は、遠くから黙って声援するしかない。かっちり描く植物が得意。たくさんの絵をドンドン描いて、強くなってほしいと思う。

 

   
   


 Sさん、六十九才は「昨年休んで描けなかったテーマを今年はやります」と、自らどんどん申し出る。〔ガラスのコップ〕〔自転草〕〔ヤマゴボウ〕・・・。
 「わたくしね。以前は主婦をきっちりやっていました。でも今は、絵を描くことが楽しくって、掃除もなにもあまりやってませんの。多少部屋がよごれていても死にませんものね。気にしなくなりました。八畳間に所狭しと、あれも描きたいこれも描きたいって、画用紙や画材を広げているので、「少しは片づけろ」と主人は怒るんですの」「なんだか最近、息子も邪魔で、三食の食事を作るのもめんどうになって、描きたいものが次々に浮かんで楽しくって楽しくって、人生捨てたもんじゃないなと実感してます」「今年は、絵を描いた感想文は俳句にすることにします」と毎回、俳句を残し、続々と作品を仕上げている。
 離婚の痛手から自信喪失になっていた三十代はじめのHさんも、絵を描いて元気になって 「働かなくちゃしょうがない。やってみることにします」と、六月後半から掃除婦さんになった。まだまだ細い体と白い肌で、「腕が太くなったような気がします」と言っていた。

 Iさん。私の本を読んでファンレタ−をくれた人だ。
 大学を卒業後、七年間有名な版画家の刷り師をやっていた。どのくらい有名な版画家かというと、政治家がアメリカ大統領に、その作家の作品をプレゼント用に使ったりする。
 銀座の和光で展覧会をすると一億円くらい売り上げたりする。そのほとんどをIさんが刷っていたが、結婚のため、その作家のもとを離れた。
 その作家が五月になくなった。そのお葬式の帰りにIさんとHさんが偶然駅で会い、キミ子方式の話で盛り上る。〈これは運命だ〉と、Iさんもアートスクールに六月から来るようになった。
 絵を描きながら聞く、その老作家と若く美しい独身の刷り師−Iさん−の二人三脚の作家活動の話はミステリーよりドキドキする。 その彼女も〔あかまんまのはがき絵〕を描き終え、それから一週間後「母にプレゼントしたら、母は泣き出さんばかりに喜んで、なによりのプレゼントと言ってくれたわ」と言い「田舎の母に上京してもらって、二人の子どもを見てもらって、就職 することにします」と十一月末に決意を表した。ただ今求職中。

   
   
 七ケ国語を同時に学ぼう=ヒッポファミリーのMさんは、ご主人が定期講座を学んで一年、ついにMさんもアートスクール入学だ。  ヒッポのMさんがTくんに 「Tくん「今日は寒い」ってフランス語でなんて言うんだっけ?」という間いに、Tくんは「○X△XX」と言う。「英語は?」「○X△xx△X」と流れるように答える。Mさんは喜んで 「この教室は、絵と語学が学べるわ」とTくんに質問してボキャブラリーを増やしていた。 「いつか沖縄へ帰って、ヒッポとキミ子方式を普及したいわ」と言っていた。それが突然八月に、ご主人が沖縄への転勤が決定した。
 Tくんは「日本語より、フランス語や英語の方がスラスラと会話が出来る」と、入学の時に聞いていたので、どんな顔の人かと緊張していたら、すてきな日本の男性だ。
 沖縄転勤で去ったMさんの紹介で十二月からUさんが参加。
 来年四月には、アメリカのミシガン州にご主人の転勤で行ってしまうというWさんが十一月から三月まで〈いそがなくっちや〉と来ている。
 「主婦は最高よ。昼間本を読んだり、好きなことができて」と、おっとり優雅なVさんは月に一度のペース。
 「大検が受かったら、九月から又行きます」と、はりきっていた一期生のHくんは、大検に受かり、アナウンサー学院にも受かり、声優になる可能性がぐんと近づき、そちらで学んでいる。

 

   
   

 

○描きはじめの一点に思いを込めて

 様々な年齢の、様々な事情をもった人が、ふと、アートスクールでふれあう。同じテーマを描いたり、違ったテーマを描いたり、時には、ちょっと話をしたり。
 確実なことは、絵を描き作品が残ること。翌週必ずしも会えるとは限らない。
 まるで人間の交差点。その交差のひとときを、キミ子方式で絵を描く。
 卒業生のMさんのお母さんから 「娘は、アートスクールに行く以前は、毎日ように警察に呼ばれる日々で、電話の度にドキンとしていたのに、絵を描いてからピタリと盗みが止まったのよ。うそみたいに」という話をこっそり聞いた。
 彼女は在籍中一回だけ休んだ。その一回分のテーマを、今年ひょっこり現れて描いていった。彼女の中できっちりと全カリキュラムをクリヤした。それは、開講以来四年間、皆勤した生徒が一人いたという、アートスクールの新記録にもなった。
 過去に何があろうが、未来に対してどんな不安があろうが、ただ今は絵を描くだけ。描きはじめの一点に、自分の思いをこめて、三原色で色を混ぜて自分の色にして一歩を印すだけだ。

 一九九三年の春から始まるアートスクール五期生を募集中。
 広島の高校生が願書をもってきた。
 「そんな資格もとれないところへいかなくても・・・」と言う、高校の先生の反対に「楽しく生きるための中味を学ぶんです」と、キッパリ言い切ったそうだ。
   
     

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