エッセイ目次

No56・57
1993年12月4日発行

   
   


電話でレクチャー

 

   
   

 徳島教室の講座。前回作ったフォルモ粘土の「カボチャ」に、色をぬるテーマである。
 今回は主催者の小林陽子さんがいない。
 主催者がいなくたって、会場があり、生徒が居、私がいれば大丈夫と自信はあった。
 十一月十三日、東京は晴れ。12時45分の飛行機だから、10時に私が家を出れぱいいと、庭に咲きみだれる〈さざんか〉を見ていた。窓中、ピンクの花々で、しばらくピンクにあきそうだ。
 そこへ、愛媛にいるという陽子さんから電話があった。
 「飛行機、飛ぶかどうか心配なんよ。徳島方面すっごい嵐で、二便は大阪止まりらしいよ」と、これ又、嵐のようにあわただしい電話。
 「大丈夫じゃないの? ダメだったら新幹線で行くわ・・・」と、目の前の風景から、嵐が見当つかないので、のんびり答える。
 「新幹線だと、今日の講座は間に合わないよ。でも、明日の講座は間に合うか」と陽子さん。徳島教室のことを、愛媛と東京で心配している私たち。
 「今まで、飛行機に乗り遅れたことが三度あったり、嵐にぶつかったりしたけど、仕事だけはキャンセルしたことないから、今回も大丈夫じゃないの」と、雨や風とまったく関係ない青空を見ながら答える。

   
   


 羽田についた。徳島行きは〈天候調査中〉の看板がでている。放送も入る。
 もともと、この12時45分定時のが順調に飛んだとして、2時丁度に徳島に着く。タクシーを飛ばして15分。15分は遅刻だ。
 この15分を、机をととのえ、前回の粘土作品を並ベ、着色のための絵の具を出したりしていると15分は過ぎるので、その準備をしておくように、助手のトミタさんに頼んでおいた。
 私は待合室で丸山友岐子さんの『超闘 死刑囚伝』(社会思想杜)を読んでいた。これが面白い。
 生命を法が奪うのは不条理だと、死刑囚が獄中で死刑廃止闘争や監獄行政に抵抗した孫斗八。
 その人に向かい23歳の作者は
 「生きたいと欲するものには生きる権利がある」といい、孫斗八の犯罪ドキュメントを29歳の時、書きあげる。孫斗八とは一体何者か。孫斗八と、それをめぐる弁護士、運動家、市民と監獄の人々のありよう。ウソをつく人間というものの、まか不思議さに、手に汗をにぎるように読みつづけていた。

   
   

 風も仕事も、死刑目前の極限状態の人間の弱さと強さのダイナミズムさの前に比べると、何とおだやかなことか。
 トミタさんに電話する。彼女は
「キミ子さん、ファックスで指導手順を送って下さい」とオロオロしている。
 「大丈夫。次のことを黒板に書いて下さい。 ・小筆で"かぽちやのタネを描く" ・小峯で"かぼちやのわたのふにゃふにゃを描く" ・大筆で"たべるおいしいところを描く" ・中華で"かぽちやの皮を描く"」 「大丈夫かな。飛行機とぷかな。今こっち、雨風やみましたけどね」 とトミタさん。
 これで大丈夫。私は、丸山友岐子さんの本を、読みつづける。
 30分遅れで、徳島行きは出発。「着陸できない時は、大阪空港に引き返すことも考えられます」のアナウンスに、少しでも徳島方面に飛べぱいいなあ−と思いながら、天候不順の為にゆれにゆれる飛行機の中でも、それを読んでいた。
  激流をボートでこぐ心境で、気流の変化を楽しめた。
 徳島空港着。雨も風もなく、くもりだ。
 いつもは15分くらいで会場まで行ける距離が、街中が混雑していて30分かかる。  「昨夜からすごい嵐で、あちこち増水で、轟神社で車が流され、死者も出たらしいです」とタクシーの運転手さん。
 会場に、ころがるように入ったら教室から音一つもれていない。 「シー−ン」とした教室を入口からのぞく、私と目が合うった生徒さんがニコッと笑顔を返してくれた。
 「ごめんなさいね、おそくなって。静かに熱心にやってるじやない。私がいなくっても大丈夫みたいね」
 主催者も、指導者もいない会からはのがれたようだ。
 静かに黙々と30人ほどの人が「かぽちやの色ぬり」。そして、20人ほどの人が「毛糸の帽子」を描いている。
 HOW TOがはっきりしているよさだ。
 ふと黒板をみたら  ・小筆〔たねを描く〕・・・から・までだけが、広い黒板の下の方に、小さく、白いチョークで書いてある。
 毛糸の帽子もトミタさんが教えてくれたようだ。 「『はがき絵の描き方』を見て、そしてメモを見て教えたの。あ−心 配だった。『三原色の絵の具箱』には「毛糸の帽子」の描き方、載ってないでしょ」と、興奮している。 「『三原色の絵の具箱には「毛糸の帽子」載ってるわよ。「もやし・イカ・毛糸の帽子」と基礎編がしっかり。この本のとおり講座を進めてるのよ。それにしても、毛糸の帽子の描き方って『はがき絵の描き方』』に載ってた?」と私。私は忘れていたのだ。
 「あぁ キミ子さん来てくれてよかった」
 「電話で指導したのも久しぶり」と言った私のセリフに、みんな明るく笑った。

 

   
   

 今では本がたくさんでるようになったので、電話での指導は何年か振りだった。けれど、一九八二年以前はすべて電話での指導だった。 @堀江晴美さん、国友 治さんから毎晩のように電話があって、「どうやって描くの?」「どう考えたらいいの」という質問から始まり、美術の研究会での発表のセリフまで電話で教えた。
 国友さんは、私との会話をテープに録音し、そのテープを車の中で間きながら研究会の会場まで行ったという話を後で聞いた。
 それにしても、カボチャの着色は〔たね〕→〔わた〕→〔たべるところ〕→〔皮〕の順序でいいのか?
 この順序だと、皮をぬる頃は疲れてしまって、皮を雑にぬることになる。  〔皮(中年)〕→〔たね(小筆)〕→〔わた(中華)〕→〔食べるところ(大撃)〕の順の方がいいようだ。
 疲れてなげやりになってから描いた方が、たべるところは元気よい色になるようだ。
 皮はカボチャの中で一番面白くなく複雑な色をしている。だから、開始すぐのまだ元気の時にぬった方がよい。
 午前に粘土でカボチャをつくり、午後に着色しなくちやならない時は〔たね〕→〔わた〕→〔たべるところ〕→〔皮〕の順が、乾燥具合と合っているけれど、完全に乾いてからの着色は、皮が先の方がいい。
 このカボチャのテーマを発見したのは、川越の篠崎悦子さんだ。彼女は最初、半分のカボチャをモデルにしていた。
 「タネを作って、わたの中に入れるとき、とても楽しそうよ」と教えてくれた時の笑顔を覚えている。
 半分から四分の一になって、今では六分の一か八分の一になっている。
  まだ、どの本にも載っていないがキミ子方式の重要なテーマである。

 

   
     

TOPへ