エッセイ目次

No60
1994年4月4日発行

   
   


傷を癒してほしい

 

   
   

 三月になっているのに、雨の降る寒い日だ。
 着ぷくれで重い体のまま入る福祉園の中は、真夏のブラウスでもよいくらいの暖かさだ。事務員さんもワイシャツ姿。
 寒いのがニガ手な私は、冬は暖房完備の建物の中で働いている人がホントうらやましい。
 東京都北区にあるA福祉園。一九七九年に、どんな障害のある子も養護学校に全員入れようという制度ができ、現在は、義務教育を終えた年齢の人が通ってきている。60代の人もいる。
 定員は48名。在籍者40名で、希望者は全員入れる。
美術クラブの授業(という言葉を使ったかさだかではないが)を見て助言してほしい、ということだったので、案内されて二階へ通された。
 二階に上がってすぐの壁に「空」の絵が貼ってあった。 「わあ−すご−い。講か教えてくれてるんだ」と思わず叫んだ。こんな話は今日まで知らなかった。
 講演の前に「本校での実践を見て下さい。そして、アドバイスして下さい」という話は間いていた。でもその時間をなるべく持ちたくなかった。

 

   
   

 以前、確か川崎市の養護学校で、同じような希望があり、軽い気持ちで早々と授業を見るために出かけた。
 そこで見たものは、教師がサインペンでかいた木の葉の下書きに、クレヨンで色をぬっている。〈はみださないようぬる〉のが課題のようだ。
 「だめじゃないの、はみだしちゃ」という声が飛ぷ。色がぬれた木の葉を、壁に貼ってある模造紙に描かれた木の枝にのりづけして完成を祝う、という授業だった。
 つらくて、一時間の授業を見学することはできない。
 映画や本は「あっつまらない」とわかっても見始めたもの、読み始めたものは「どうしようもないなあ、でも、もしかしたら最後の〈場面〉や〈一行〉に感動できるかもしれないと、終わりまで見つづけてしまうけれども、授業だけは、つまらない授業は見つづけていることはできない。目の前で、つまらなそうな人の顔や、苦しんでいる人の顔、なんとかごまかそうとする人の顔を見ているのがつらいのだ。
 私は、10分もすると、もう耐えきれなくて校舎内をブラブラ散歩することにした。
 中身が充実していれば、形式にもそれが出るはずだ。生徒のいない、教師のいない空間だけを見て、この養護学校の授業の中味を予想することにした。その結果は寒々としたものだった。丘の上の緑にかこまれた鉄筋二階建てで、全館冷暖房の入った、豪華な校舎。その中で行われていることは・・・・。
 その時以来「本校の実践を見て下さい」の申し出は、やんわりと断ることにしている。

 

   
   

 「え−、ここでキミ子方式やっている人がいるの?」と、思わず案内をして下さった方に興奮して聞きながら、作業している部屋に入る。そこへ、一人の女性が飛びだして来た。
 「あっ松本先生、ホントに来て下さったのですね。夢のようです。空の絵どうですか? 三原色って、ホントにきれいな色がでますね。空の下に木立ちを描く時ね、テンテンがうまくできないから、こうしたんですよ。」
「・・・ちょっと一杯のつもりで飲んで・・・」と、大声で歌いながら、絵を描いている60代の人の机を、歌に合わせて、手のひらでトントンたたき、リズムをとる。その女性も絵を描いている方も、うれしそうに身体をゆずり、筆がリズミカルに動く。空の下に木立ちがどんどんふえる。
 「邪道ですか? でもこうするとトントンと筆がはこび調子いいんですよ」  「絵は筆との触覚遊びだから、それがいいんです」と言い終わらないうちに
 「先生見てください。A子ちゃんの絵・・・」とグイグイ私をひっぱって、もう一度廊下に出る。空の下の点々に、赤や黄色が入って、お花畑のように見える。
 「はじめ木立ちなのに、赤や黄色を描いてしまって「あっ変だな」と思ったけど、でもお花畑みたいでキレイだなと思って。あのA子ちやんが、とってもうれしそうに描いたの。本人もとっても満足してて」「あっ先生、『教室のさびしい貴族たち』(仮説社)を読ませていただきました。そしておもわず手紙を書いちゃったんですけど・・」
「私、小学校一年の時、弟が病弱で入院していて、母が弟の付き添いをするため、いつも一人で家にいました。
 日が暮れると、さびしくて泣きたくなりました。そんな私に、母がウサギが出てくる絵本を買ってくれたんです。それがうれしくって、ウサギがかわいくって、何度も何度も読んで・・・絵を見て・・。
 図工の時間に、その母ウサギと子ウサギの場面を一生懸命描きました。特に母ウサギをいとおしい気持ちで描きました。ウサギのまわりを山の中だからって黄色にぬり続けました。絵を描いている時、とっても幸せでした。ところが、担任の先生から電話があって、話をしている母が泣いているのです。私が描いた絵を見て 「暗い絵の具ばかり使っていて、情緒的に問題のある子だ」と言われたのです。
 母は弟の看病で疲れている。それなのに、私まで母を苦しめてしまった。そのことが悲しくて、それ以来絵を描いちゃいけないと、絵を描くのが怖くなったんです。」

 

   
   

 そこまで一気に言うや、彼女の目に涙があふれ、私も泣いてしまった。悲しすぎる話ではないか。
 たった一人で絵本を読んでいる少女、絵本を見ながら絵を描く少女、それは過去の私でもある。私はそのことをず−っと守って中学生になって、レンブラント風の暗い自画像ばかり描いていた。その絵を美術の先生が、窓の外を見ながら「君はそんなに憂鬱なのですか?」と言った。その言葉が「私の気持ちをわかってくれている」と、絵を描き続けるエネルギーになった。
 それなのに、目の前の女性は、小学校一年生の時以来、絵を描かない人になった。
 その彼女が、キミ子方式ならすてきな絵ができるんで、うれしくってと、この福祉園で空の絵ばかり描かせている。 「モヤシもイカもニンジンの絵も教えてあげて下さいよ。いつも見ているものを絵に描くって、楽しいことですよ」 「・・・・自分は母を悲しませる絵は大嫌いになりました。
 保母になった時、子どもの絵は心を表すという定説で、心の中にズカズカ入って叱咤する権力者にはなりたくないと誓いました。のびのび自分を表現した絵を描ける子にしたいと、描画の勉強会にも通いました。でも結果はそのような子にしてあげることはできなかったのです。
 保育園から異動になり、障害者(19才〜62才の知的障害の方々)と共に生きる施設職員になり六年が過ぎました。絵を描いていただく場面はありますが、指導は大人だからと職員はしないのです。そんな時、松本先生のことを聞いたのです。
 空の絵、これまで描いたことがないくらいたのしくって、簡単で、上手に描けました。」(手紙より)

 いつも、どこかで、絵に関して傷ついている人の何と多いことか。そんな人がキミ子方式で元気になっていってくれたら、こんなに婚しいことはない。
  四月です。キミコ・プラン・ドウを開設して、六年目に入ります。多くの仲間と、これからもよろしく。

   
     

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