年末海外スケッチツアー同行記
やさしさと、クリーンな街、ベトナム



松本一郎 東京・キミコ・プラン・ドウ代表

 昨年、キミ子さんの不参加で、年末スケッチツアー〈ネパール〉に同行したボクは、それが久しぶりの海外旅行だった。考えてみれば、初めての子どもが生まれて、飛行機の運賃がかからない2才の時に、家族でニュージーランドに行ったきりだから十年振りだった。
  スケッチ旅行の実施が近づいて初めて、パスポートの有効期限が過ぎていて、慌てて作り直した。それでも、やはり日本以外の国に出かけ、その土地の文化や人々にふれ、心地よい充電が出来たから、また1年元気に働くことができたのだと思う。
  2004年・夏、横浜でキミ子方式の全国大会があり、大会後にスタッフと講師が中華街で昼食をとりながら打ち上げ会の時に「年末のスケッチチツアーへはドコに行くのか」という話になった。
  キミ子さんは、気分的に先に明るいイメージがもてない状態だったようで「あんまりプランがないのよねぇ〜」とブツブツ。そこへ、キミ子さんの隣に座っていた松浦幸子さんが「ベトナムなんかどう? フエっていい街なのよ。人がやさしくて、食べ物も美味いし・・・」と言うと、〈食べ物の美味しい・・・〉に反応したのか、キミ子さんはパッと顔を上げる。
  大皿に盛られた中華料理を自分の皿にとりながら、松浦さんが「前にセーヤン(ご主人のニックネーム)と行ったのよね」と左手に持っていた小皿をテーブルに置き、少し遠くを見るように顔を上げた。


 一昨年のネパールのスケッチツアーは松浦ご夫婦が参加してくれた。長身で飄々と、いつも笑顔のご主人、正行さんは、キミ子方式関連のイベントに参加してくれる数少ない男性だから、好感を持っていた。また、松浦夫妻はスケッチツアーにココ何年も毎年参加していたから、過去のツアーに参加している人とも顔見知りだった。
  ネパールでの正行さんは、少しの空き時間も惜しまずスケッチをして、ステキな作品を残していった。2004年・春に、キミコ・プラン・ドウで風景画を集めた作品展を開催するのあたり、3月にご自宅を訪ね、正行さんと幸子さんのネパールのスケッチをお借りして、作品展に出品することをお願いしたときも、気軽に協力してくれて、コタツで三人で話し、楽しい一時だった。
  その正行さんが、昨年5月に事故で突然に天に召されてしまった。
  その事故当日は、松浦幸子さんは私どもが主催している「教え方セミナー」に参加していて、ボクが松浦さんを車で収容された病院まで送り届けたという経緯があったから、ベトナムへ行きたいという松浦さんの願いが叶えばいいな〜と様子を伺っていると、キミ子さんはベトナムに行く気分になっているようで、ボクに「旅行会社に聞いといて」と指示を出し。食べかけにホイコーローを頬張っていた。
  それからは、旅行会社を連絡を取り、日程の希望を出したが二転三転してやっと日程も決まり、チラシが出来て生徒さんの配り始めたのが秋。12月25日(土)に出発のために、出足が悪い。
  一番最初に申し込んでくれたのは、駒場教室に通う学校の先生、福島純子さん。その後、ポツポツと申し込みがあり、スケッチツアー常連の漆原万里子さん、小杉ひろみさん、静岡で先生をしている渡邊公子さん、鳥取で保育園勤務の田中明美さん、現在、拓殖大学北海道短期大学の生徒になっている鈴木美智子さん、ネパールで初めて参加した横浜の先生、広瀬由美子さん、三重からは藤井恭子さん。茨城から参加の井田恵美子さんは「多分、もう年だからこれが最後の海外旅行になるわ」と言いながら参加。北海道からは、常連の学校の先生、村上かおるさんと、看護士さんをしている吉植キヨミさん。そして、唯一の男性、神奈川で先生をしている鬼沢明男さんは、今回のツアーでもボクと同室になる相方だ。総勢13名とキミ子さんにボクの15名で年末スケッチツアー・ベトナムに出発することになった。



 12月25日(土)朝8時30分に成田空港に集合。  ボクは前日24日に、千葉県市原市の幼稚園に教員研修で、朝9時から午後5時までビッチリ授業。
  講座後も「子ども達が描いた作品を見て欲しい」と言われて「イイですよ」と言ったとたんに、1クラス70枚の作品が3クラス分の作品を目の前に置かれたので、それにコメントを言っていったら6時を過ぎ、それから家に帰り着くまでに3時間、帰宅が10時を回った。
  クリスマスイブに、その時間の帰宅はつらいものがあった。そして、残りの仕事を片付けて午前2時。それから旅行の用意をして、寝ついたのが4時。2時間後には成田行きの高速バスに乗らなければならない。それでなくても、普段なら、ひと月30日でギリギリの仕事量を25日で片付けなくてはならないから、かなりタイトなスケジュールだったが、なんとか出発に間に合った。

 自宅近くの高速バス乗り場には、キミ子さんと前日にキミ子さん宅に泊まった村上さんがバスを待っていた。  成田に着き、参加者が続々集まってくる。一人も欠席者なし。みんなで飛行機に乗り込み、一路ベトナムへ。午後3時にはベトナムのハノイに到着。
  ソフィテル・メトロポール・ハノイをいう、チャップリンも泊まったという高級ホテルへ。中庭にはプールがあり、街の雑踏が入り込まない静寂と気品が漂っているステキはホテルだった。


.ベトナムに到着

レストランで昼食


マーケットの一角


ベトナムのイカ


  ハノイの朝は、6時スタートの散歩から始まる。
  小杉さん、鬼沢さん、鈴木さんと一緒に朝食まで街を歩き、ホテルに帰って朝食。その後はオプショナルツアーに出かけるキミ子さんご一行と、街の残る僕たち。街に出てスケッチをする。
 街は人通りが多く、細い路地でさえバイクが通り、ゆっくりスケッチする場所がない。ホテルに戻り、作戦会議の結果「シクロ(人力タクシー)に乗りたい」という松浦さんの声かけで、藤井さんらとホアロー収容所に出かける。
  松浦さんは以前に来た事があるそうで、アメリカ占領下の政治犯を収容していたその場所の、悲惨な環境の中でも団結し諦めずに運動を続けていた囚人たちの意志の強さを、ガイドに替わってボク達に説明してくれる。そして、今度はタクシーでホテルに戻り、優雅な時間が流れる中庭にあるレストランで昼食を取り、プールサイドでホテルをスケッチをした。それを横目にプールサイドのチェアーで本を読むボクは、そのまま遅い昼寝をしているその横で、松浦、藤井組はスケッチに精を出していた。


朝の散歩

シクロのおじさん


昼間から井戸端会議


カフェで作戦会議


 次の日は、ハノイからフエへの移動日、午後の飛行機だったから、チェックアウトを遅くしてもらってそのままホテルの部屋で時間を過ごし、夕方に飛行場へ。
  午後7時に、フエ到着。飛行場から宮廷料理が出るレストランへバスで移動。そのレストランがいかにも観光客が連れてこられるようなレストランで、宮廷にふさわしい衣装を着せられ、ベトナムの民芸楽器を使った生演奏が鳴り響く大部屋に通され、写真を売りつけられ・・・という、ちょっと勘弁の歓迎を受け、またそこで出されたオシボリが、便所の芳香剤に漬けてあったのではないかと思う香りをはなっていた。
  そのオシボリの香りにやられて、どの料理も味が分からない。耳からは好みではない曲が聞こえてきて、そこにいるのも辛くなってきたから、外にタバコを吸いにでかけ、少し散歩のつもりで歩き出し、ブロックを一周したら、レストランの場所が分からなくなってしまった。それでウロウロしていると、やっとレストランまで乗ってきたバスを発見して、レストランがわかり、レストランの前では現地ガイドのファンさんが心配げに立っていた。


レストランで.

宮廷料理

 

  部屋に戻ると〈正行さんを偲ぶ会〉が始まっていた。
  実は旅行前に常連で松浦夫妻を知っている人に「旅行中に、松浦さんのご主人を偲ぶ会をしよう」と言っていて、キミ子さんを中心に、松浦さんに気づかれないように計画をしていた。ガイドには花束の手配を頼み、全員が思い出を語ることにしていたのに、一人迷子になって、その場にいられなかったのが申し訳なかった。
  フエの街は、小さい街で2日目は、オプショナルツアーで13名中12名が出かけ、残った福島さんとボクの二人でフエの街を歩き回り、スケッチするのに最適なマーケットを見つけスケッチ。 

 


ホテルの窓から


マーケット


別のホテルの中庭で談笑中

 

 フエの街は、小さい街で2日目は、オプショナルツアーで13名中12名が出かけ、残った福島さんとボクの二人でフエの街を歩き回り、スケッチするのに最適なマーケットを見つけスケッチ。  次の日は、全員がフエでスケッチなので、下見には丁度よかった。
  そして最終日は初めての雨。やはり飛行機の時間までホテルにオーバーステイさせてもらい、お土産を買いに行く人、スケッチを描く人とそれぞれの時間を過ごしていた。
  帰りの飛行機は、実質4時間で成田の元旦の朝に着き、その近さにあらためて驚いた。成田空港でそのまま北海道へ帰る村上さんや、親戚の家に行く吉植さん、自宅近くまで高速バスで帰る松浦さんとキミ子さんとボクの3人で家路についた。楽しい本当にリラックスできる旅行だった。怪我人や病人がでなかったから、それだけでも大成功の楽しいスケッチツアーだった。


最終日・フエの飛行場で

 

元旦の朝 成田空港も近い


  正月休みも終わり、平常の仕事モードに切り替わった1月中旬に、松浦幸子さんから写真が届いた。そこにはチクロに乗って笑顔の松浦さんと藤井さんの写真や、ボクが街を徘徊していた時の写真が入っていた。そして手紙が同封されていた。


  寒中お見舞い申し上げます。
  ベトナム旅行をご一緒できて嬉しかったです。ベトナムは、私の憧れの国でした、友達になりたい国でした
  学生時代、ちょうどベトナム戦争の激しい時で、夜学生だった私は「アメリカはベトナムから出ていけ」と、シュプレヒコールしながら、デモ行進しました。水田を耕しながら闘い続け、飢えずに勝利し、南北統一を果たした一九七五年は〈自由と自立の希望は必ず叶うのだ〉と、確信できたのでした。
  そして年月な流れ。二〇〇二年、私の夫である松浦正行の退職記念の旅行に、ようやくベトナムを訪ねることができました。その時はHa(ハー)さんという若い女性が、国営放送局の仕事を休んで、私たち夫婦の個人ガイドをしてくれました。ハノイの孤児達の施設や、枯葉剤で障害になった子どもたちのリハビリセンターを訪ね、交流しました。
  この体験を機に、正行は、現地の教育支援やユネスコの市民活動に参加するようになり、会社にいてサラリーマンをしていた時とは想像のしなかった人間関係を広げていきました。
  人生はわからないものです。二〇〇四年五月、夫、正行は山梨県内の山から、パラグライダーの事故で突然、別の世界に旅立ってしまいました。
  私は、悲しみを胸に深く刻みながら、ひたすら前向きにクッキングハウスの活動を支えてくれました。
  そして、年末の二回目のベトナム旅行。ハノイでは偶然にも、前回、夫と泊まった同じホテルに泊まりました。夫が亡くなって初めて、正行が夢に現れました。「私がパーティーを終えて、部屋に戻ると、にっこり笑った正行が待っていて、部屋はそのまま船になって出航した」という夢でした。
  フエに移動した、旅行3日目の夜に王宮レストランで、ツアー参加者のみなさんに語っていただいた、正行の思い出の言葉一つ一つがとても嬉しかったです。その時にいただいたバラの花束は、フエの滞在中、私のそばにあり、最終日、フエを去るその日の午後四時に、フエで泊まったリバーサイドホテル・フエの前を雄大の流れるフォン川に流しました。
  「さよなら」。正行は、みなさんの思い出に感謝しながら、淡々と、ひょうひょうと去っていきました。
  私たちの旅の間、スマトラ沖地震の津波で、また大勢の方々が尊い生命をなくしていました。どんなにつらいことでしょう。残された者には、生きていくという仕事があります。私は、生命を尊ぶ活動を、もっと前向きにやっていこうと思っています。
  また、旅でお会いするのを楽しみにしています。良い一年になりますように祈ります。

二〇〇五年一月七日

 


 今年の年末は、ニュージーランドへ出かける予定です。大晦日から新年にかけて、キミ子さんのセカンドハウスで年越しパーティーをしようと計画中です。ステキな仲間が集まる年末スケッチツアーに、あなたもいらっしゃいませんか? 最高のサービスと楽しい旅行を約束します。今から考えておいて下さいね。
  「クッキングハウス」東京都調布市にある精神障害者小規模作業所。利用者がウエイトレスやウエイター、調理を、一人一人の出来ることを集めてレストランを開き、近所に住む人たちやクッキングハウスの関心がある全国の関係者が見学に訪れている。
代表の松浦幸子さんの著書に『不思議なレストラン』『続・不思議なレストラン』『いくつになっても夢を描けます』『私もひとりで暮らせる』(全て、教育史料出版会)など多数)

 

松浦幸子さんが主宰する〈クッキングハウス〉のHP