エッセイ目次

No19
1990年11月4日発行

   
   


発想の原点を求めて


   
   

  誰でも絵が描ける方法「キミ子方式」をなぜ見つけてしまったのか、その発想の原点は何なのか、自分のことながら不思議で自分とは何なのかも究めたくなった。

   
   

 私に「戦争は終ったのだ。新しい世の中になるのだ」と強烈な印象を与えたのは兄の話だった。兄が観て来た映画「手をつなぐ子等」の登場人物のものの考え方だった。
 小学校二年の私は兄の下校時間に合わせて、山のふもとまで迎えに行った。息せききって私にかけよった兄は興奮して話しまくる。
 「今日は、いい映画を観てきたんだ。落書きばっかりする子を、どうしたら落書きさせないようにするかとクラスで話し合うんだ。殆どの人は「罰をあたえたらいい」と入っているなかで、一人の少年が「その落書きを消せばいい」と言うんだ。「そんなことしたら又書くよ」と反対されたら「じゃあ又消せばいい」「又書いたら?」「又消せばいい。ずーっと消せばいい」と主張するんだ。ね、すごい映画でしょう。早く家のみんなに知らせよう」
 このことは、辺見じゅん編「私たちの戦争体験」(深夜◯書社)にも書いたのだが、この映画を私は観ていないし、今までに映画雑誌などで見たことがないような気がする。過去のことは、勝手につくりあげた思い過ごしも多いから気になっていた。

   
   

 先日、国立公民館の青木さんと雑談していた時に「手をつなぐ子等」っていう映画を探しているんだと話したら、青木さんはすぐに図書室から「映画辞典」(キネマ旬報社)と「日本映画作品全集No619」(キネマ旬報社・増刊11・12)をもってきてくれた。
 「あった!」私の記憶違いではなかった。
 『手をつなぐ子等』一九四八年(大映京都)原作は田村一二。しかしそれ以上に、脚本、伊丹万作の精薄児問題に対する慎重な構成上の配慮と訴えかけが、作品の感動を重く沈めている。精薄児・寛太の底抜けの善良。それが悪童、山金をして改心させるプロセスが、自然でかつ理詰めであり、稲垣浩の抑制のきいた演出もよい。(後略)八六分(滝沢)と書いてあった。そして、同じ題名のもう一つあった。
 『手をつなぐ子等』一九六四年(昭和映画ー大映)。故 伊丹万作の名作シナリオを、羽仁 進、内藤保彦が脚本しなおしての映画化。監督 羽仁 進(後略)九九分(斉藤)
 主人公が寛太と言う名だったことも、精薄児ということも知らなかった。原作者の田村一二ということも知らなかった。脚本の伊丹万作は「たんぽぽ」「マルサの女」「あげまん」で今話題の監督、伊丹十三の父上であることは知っている。
 兄の話から、勝手に想像していたけれど、本物の映画が見られるかもしれない。どこへ行ったら見られるだろうか。とりあえず、脚本だけでも読みたいものだ。
 精薄児が主人公だとは兄は言わなかった。けれど、私は四十二年間その話を深く覚えていて、ものの判断をする時、そこに帰ってゆく。
 『教室のさびしい貴族たち』(仮説社)の主人公たちとその少年のイメージがだぶって見えてきた。
 伊丹万作は、職業を聞かれると必ず「山師」と答えたそうだ。私の祖父も「山師」だった。
 キミ子方式を考えた当時、その考えを発表するたびに「気違いだ」「サギ師だ」と罵られていたが「私は山師の孫だから・・・」と誇りに思っていた。
 伊丹万作の脚本『手をつなぐ子等』への興味で、興奮の日々が続いている。

   
     

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