エッセイ目次

No31
1991年11月4日発行

   
   


偶然か必然か

 

   
     ニュージーランドから、友達アレンが東京に来た。彼女はカリグラファーなので「和紙を手に入れたいので、どこかお店を知らないか」と問い合わせがあった。
 私も"和紙"のことはくわしくないので、東京案内がてら、東京芸大に行くことを思い付いた。久し振り旧友に会えるたのしみもある。
 芸大について友達を探すため名札を目で追っているうちに"秋田蘭画の研究者"として、
山川 武
の名があった。
 学生時代にお世話になったその人の名を、初めて買った二万五千円の「秋田蘭画」の本のあとがきで知った。今は東洋美術史の教授である。
 いつか訪ねて、話を聞きたいと思っていたので、守衛室から電話してもらった。
 今回は主に和紙のお店のことを聞いたのだが  「日本画科の人は、最近和紙を使っていない。紙のことなら版画科の先生に問いあわせたらいい」と版画科に電話して下さり、バッチリこちらの望み通りのお店を教えてくれた。
 教授はとても懐かしがって下さり、秋田蘭画の小田野直武の話もでた。いい日だった。
   
   


 一昨日の夏だった。秋田に行き、秋田蘭画に出会い、とりわけ小田野直武という画家に惚れたのだった。
 小田野直武の作品を探しに、酒田や秋田をうろついた日を思い出した。山川さんに会ったその日、久し振りに「秋田蘭画」の本を開いた。
 序文は大和文華館次長の成瀬不二雄が書いている。
 この人の名も、秋田行きの電車の中で、たまたま隣の席に坐っていた、京都の古物商の方から聞いたのだった。私は彼をてっきり学者だと思った。
 秋田蘭画を探していると自己紹介したら「成瀬不二雄が研究者です」と教えてくれたのだった。
 本を読み進むうちに驚いたのは「秋田蘭画の紹介は、昭和五年には、小田野直武と同じく角館出身の日本画の大家、平福百穂画伯が、今は稀観本となった大著『日本洋画曙光』(岩波書店)を出版されている」とあった。<えっ平福さんが関係しているなんて!>  一昨日、この本を手に入れてむさぼるように読んだはずなのに、平福さんのことを覚えていない。
 今や忘れるはずがなく、平福さんが関係していたことがうれしくてたまらない。
 平福さんの息子さんのお嫁さんーちょっと込み入った関係だけれど、やっぱり名前は"平福美恵さん"
 その平福さんが今「キミコ・プラン・ドゥ」に絵を描きに来て下さっている。
 先日お会いした時、私の手をにぎりしめて
 「キミ子先生、ありがとうございます。絵を描くのがとっても楽しいです。こんなすばらしいことを考えて下さってありがとうございます」と言って下さった。

   
     
 私は平福画伯を尊敬しているだけでなく、平福美恵さんの美貌と知性に、いつも羨望で緊張しているのに、私の手をしっかり包み、感謝してくれる。お年は、私よりもはるか先輩にちがいないが、キリリと格調が高い。
 「京子先生も、とってもよく教えて下さって私は幸せです。画家の家に嫁いだので、絵が描けたらいいなぁと、長いこと憧れていたのですが、この年で実現できたのですから、嬉しくてたまりません」と言いながら握っていた手の感触もなまなましく残っている。この手で開いた本に平福画伯のことが出ている。
 小田野直武さんの絵は、キミ子方式で描いた絵とすごく似ている。植物、動物が特に。肉迫して描く感じが似ている。
 秋田美術館に「不忍池図」があるはずだと教えてくれたのも汽車で出会った古物商の方だ。
 タクシーを飛ばして、一日かけて探し回った秋田美術館は、特別展のため蔵に入っていて見せてもらえなかった。
 <あー無駄な一日になりそう>と思って帰りのタクシーの運転手さんにこぼしたら  「秋田へ来たなら角館へいかれたら?京都みたいですよ」と教えてくれた。
 どうせヒマだからと途中下車したのが角館だった。駅で地図をもらい、古都を歩きはじめ、はじめてのお寺で、なんと小田野直武の墓を見つけてしまった。
 それから活気づき、小田野直武の生家に行き、美術館に行くよう進められた。美術館は北欧の古い建築様式の洋館で、広場をとりかこんで回廊があった。
 "秋田蘭画とその周辺展"を見た。そこで館長さんに「小田野直武の作品を探している」といったら、出版されて一日後の本を見せてくれたのだった。その場で無理を言って買わせてもらった。
 今、その本を見終わった。最後のページに、その時の美術館のカタログがはさまっていた。
 「角館町平福記念館」となっていた。<平福!!>
 もっと驚いたのは、そのカタログの表紙の絵は、平福百穂の「富貴花」だった。

   
     

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