エッセイ目次

No48
1993年4月4日発行

   
   


自然のものを自然の流れに沿って

 

   
   

 「料理に使う野菜は、せんぷ近所のおじさん、おばさんが有機肥料、無鼻薬、減鼻薬で作ってくださったものと"わら"の自家栽培、卵も、もちろん平飼い鶏のものです。
 村ごと、あなたをお待ちしています。
 料理は、主人、船越康弘が心をこめて調理します。豊かな緑につつまれた村があって、子どもたちがいる暮らしがあって、この大地での生活ぜんぶが、料理に生きています。」
 これは、キミ子方式特別セミナーの会場である〃百姓屋敷"わら"の案内コピー。
 三月二十日朝六時半に我が家を出て、八時前の"のぞみ"に乗り、十一時すぎに岡山到着。横浜と広島からの参加者もそろい、十一時半に二十九人が乗った川上町特別バスは、連休の渋滞の中、山また山の川上町下丸竹の会場についたのは、二時をたっぷり過ぎていた。
 見たところ、山頂にへぱりつくごくふつうの豪農の家。
 おそい昼食は、玄米にベジタリアンカレー。
 三時から、隣の若者がつくった無農薬のさつまいもをモデルに、さわりながら一点から隣ヘ、隣へと、成長の順に、ねんどでそれを作る。疲れたら、そこでモデルを切って、出来たところまでで、いつでも完成作品になる。  60代の参加者は、岡山の難波さんと、新潟からの本間さん。
 「おもしろいですね」 「ねんどなんて初めて」と熱中する。作っている時は夢中だったけれど作り終わると、山の寒さが身にしみる。標高4○○メートルは超えている所だ。

   
   

 太いハリ、黒ビカリの天井、手づくりのテーブルの食堂には、いろりがあり、赤い火が燃える。そこが一番あったかい。
 いろりの火のまわりには、ヤマメがつき立ててある。
 「焼けたらひっくり返してね」と言われて、じっと見守りながら、おしやべりする。
 「もうすぐ、二人の娘つれて離婚するの」という人。
 「主人のかわりに来たの」。
 「宝くじにあたった叔父が行ってこいと言ってくれて」という女性。
 だんだん、お魚の焼ける香ばしいかおりが、室内に広がる。見ていなくても、においが教えてくれる。焼き上がるまでこんなに心ワクワクするなんて、これも味のうちだなと思う。
 夕食はすべて野菜を使った「マクロビック会席」ヨモギ入りこんにゃくの刺し身、ゴマ豆腐、そぱずし、天ぷら、カボチャコロッケ、野菜のあえもの、小なベ、汁、玄米赤飯。
 それぞれの料理にご主人の解説がつく。

 夜はいろりを囲んで三十代のご主人が
 「自然食の料理づくりをやっていたら、自分の畑でどうしても栽培したくなったんです。そこで、八年まえにこの石州かわらぷきの母家、離れと土蔵、そして田畑、山林、沼二つの計三万坪の土地を買ったんです。
 お金は、村の過疎対策のために国が低金利で貸してくれる制度があって全部借金。その年の一年間で、僕の髪は、まっ白になりました」
 「自然会派は半分は神がかっていますね。神がかる人は恐怖から出発しているようです。僕は、生命の営みは良い方にしか展開しないと思っていますから」と語ってくれた。

 

   
   

ボヘミアン時代

 食堂の片すみには「自然食」や「病」に関する本を売っている。何とその中に、旧友の川口笛一さんの著書があった。
 私の二十五歳から三十五歳までは手作りの家に、たくさんの芸術家の友人を呼んで、毎夜どんちやん騒ぎをしていた。
 その料理づくりと、その資金を稼ぐのが、生きがいであった。カツラやつけまつげをし、バーゲンセールめざして、銀座に車を走らせていた。
 今、十九歳の息子が、昔の私たちのように、土、日になると、友人たちと朝まで大さわぎしている。 それを見るにつけ、かつて我が家に出入りした人々は、今どうしているのだろうと思っていた。俳優の山谷和男や"くまさん"こと篠原勝之は、テレビの画面を通して再会することができる。オイルトミーの世界で有名人のNさんも活躍を知ることができる。
 喫茶店や、画廊や、私の講演先で「昔は、よくごちそうになりました」と声をかけてくれた人は五、六人くらいいた。
 「川口さんは、鼻業をやりながらの画家として、彫刻家の友人と、時々我が家にきていたんですよ。もの静かで、いつもニコニコしていて、お坊さんのような人でした」と私。 
 「川口さんは、無鼻薬野菜の世界で、今や第一人者です。もう福岡正信さんを超えたと思います。
 福岡さんは、彼独自の個性というか天才的ヒラメキがあって、僕たちにはできないのです。川口さんは僕たちにもできる、自然農法を開発されました」とご主人は、今は黒い髪で、うれしそうに教えてくれた。

 

   
   

 

耕さない農業

 川口さんには八年程前に再会していた。京都に住む、自然会に熱心な友人からのルートで、川口家に一泊したのだ。
 川口さんが来た頃の我が家は、畳二枚分の四角いテーブルに、手づくりのバカでかい焼き物の器がドカンドカン。そこに盛りつけバイキングスタイルの料理。小皿とお箸とグラスはセルフサービス。ウイスキーはハイニッカの千円の大ビンと決まっていた。
 そのつもりで、ボヘミアン気分そのままで、川口家を訪ねたら、整理された和室の、キチンとした塗りの丸テーブルに、ズラーッと並べられた、たくさんの小鉢に入った会席料理。すすめられた日本酒を飲むグイノミのみごとさ、シックさにショックを受けた。
 翌朝、川口さんは畑に案内してくれた。隣の家のぶつうの畑と、川口さんの「耕さない。鼻薬を使わない。肥料をつかわない。雑草を抜かない」畑のちがいを知った。そこに生える稲の太さ、遥しさは、私の知っていた"稲"の常識をぷっとぱした。
 川口さんの住む桜井市から、私は大阪への仕事へ向かった。
 大きな紙袋に、川口家のおいしい野菜をどっさりもらい、午前の光をいっぱい受け、電車まで見送ってもらった時、とても幸せだった。
 "美術教育"と"農業"と全く同じだ。今までの常識に違いをもち、"自然にもっと気持ちよく、楽しくできる方法"を発見し、成果をあげている。
 〈やっぱり仲間だ!〉と、うれしくなった。
 電車を降りて、タクシーに乗る。行き先を告げようと手帳を探す。手帳の入っているハンドバックがない。電車の中に忘れたのだ。私が大事にしっかり胸に抱いていたのは、川口さんのつくった野菜だけだった。
 ハンドバックがないので、行き先がわからない。電話番号もわからないので連絡がとれない。
 あれほどの失敗を、後にも先にもしたことがない。それほど川口さんの野菜にとらわれていた。

 

   
     川口さんの本『自然農から農を超えて」(カタツムリ社)を読むと「耕運機、便利な肥料、農薬、除草剤などを積極的に取り入れ、田植えと収積の時のニケ月だけ休み、あとは絵の勉強をしていた。二十九歳で体をこわす。そこで有吉佐和子さんの『複合汚染」(新潮杜)福岡正信『自然農法』(時事通信)『自然農法・わら一本の革命』(伯樹社)に出会い、自分のおこなってきたことの過ちに気づいて自分の畑で実践する。
 今は「赤目自然農塾」でも米づくりを教える。川口さんは言う  「・・・自分のことだけやっていると、気づきに限界があるのです。与える側、教える側、親の側に生きることによって、貫の知恵が働くようになるのだと思います。」
 私は三十五歳で、自然のものを、自然の流れにそって描く方法に気づき、玄米食になる。
     
     

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