エッセイ目次
 

No63
1994年7月4日発行


今年の全国大会は岡山・倉敷で

 『注文の多い料理店』とか『なめとこ山の熊』とか宮沢賢治の世界をレストランの名にして、あちこちに転々と店をかまえ、ある日忽然と旅に出る野村さん。
 今は、日本にいるのかしら、オーストラリアに行っているという説もある
 その彼が、東広島で絵の会をしてくれた。その時、岡山から何人かの女性がかけつけてくれた。

 「岡山」この地名から、私はすぐ祖母を想い出す。祖母は死ぬまで士族の出であることを誇りとし、いつも鏡に向かいオシャレをして正座をしていた。お茶をいれるのも、掃除をするのも、祖父の役であった。祖母の働く姿は記憶にない。
 学問好きだが百姓出身の祖父は、その生い立ちのコンプレックスからか、祖母に恋をし、恋愛結婚だったそうだ。
 祖母はガチャガチャと下品に動く子ども、ルーズで不潔な子どもが大嫌いだった。特に女の子の孫は嫌いだった。つまり私は嫌われた。
 「戸をきちんとたてなさい」と、よく叱られた。<たてなさい>は岡山弁で、<しめなさい>という意味だ。それを承知で私は、正座をしてまわりに注意と命令をくだすだけの祖母に「戸はもう立ってるよ」と反抗していた。

チーズケーキを食べながら
 岡山にオリエント美術館があるから見にいきませんか?と誘われて、岡山の旅に出た。オリエント美術館の近くのホテルをとった。
 その時まで、ホテルの朝食は洋食と決めていた。ところが、そのホテルのパンはまずかった。
 今では地方にもいいパン屋さんができているが、都会と地方の差は、朝食のパンのおいしさの差ではないかと思う。
 「あっ、このパンまずいわ」と同行の友に言ったら、日本は米産国なのに、パンなんかにするあなたの判断がおかしいのよ。まして、ここ岡山は吉備米と言って‥‥」と地理の先生の本領を発揮して、私に注意してくれた
 「そーか、日本はお米のとれる国なんだ」とストーンと納得し、その時以来、ホテルでの朝食はずっと和食と決めている。
 めざしたオリエント美術館は閉まっていた。
 「エーッ! この美術館のために来たのに」と叫んでも現状はかわらず、竹久夢二美術館へ行き先を変更した。
 竹久夢二の絵は甘っぽい乙女チックな少女趣味の絵と、見流していたが、夢二の畳一枚分位ある大きな女性像を見ていたら、そのフォルムが何と彫刻的で力強いことか。
 生きている間は売れないけれど、自分の信念をつらぬき、死後評価される画家、ゴッホのような作家を純粋画家と尊敬し、竹久夢二のように生きている間に、国民にブームをおこす作家を大衆画家とそまつにする偏見が私にはあった。
 しかし、夢二のように、その時代に生きた多くの人に、夢と勇気を与えたのだから、すばらしいではないか。死後も美術館が建ち、多くの人たちが見学に訪れている。それは、魅力ある作品だからだろう。

 その後、オリエント美術館のことが気になり、四国へ乗り換えついでに、三時間程時間を作り、タクシーをとばして行った。
 美術館の蔵品も多彩だが、美術館の建物と展示の仕方と解説がユニークで、あちらこちらにあるクイズの答えを考えながら、一体この美術館の館長は誰?学芸員は誰?とそっちの方にも興味をもった。
 美術館には喫茶店があって、そこのチーズケーキがうまい。思わず「おいしいですね」と大騒ぎしたら「みなさん、そう言って下さります。私どもの手作りで‥‥お二つ召し上がる方も多く‥」の言葉を待つまでなく、私も一つだけでは心残りがはげしそうで、二つ食べた。コーヒーもおいしく、コーヒーの入ったカップもスプーンも骨董品っぽくて落ちつくが、室内の照明が暗すぎた。
 その部屋の本棚に『創造美育』一九六四年一一月号「第10回創造美育全国ゼミナール<現代の問題>と題して、羽仁五郎が創美(※)の大会で講演している講演集が載った本があった。四国行きの列車の時間を気にしつつ"これも何かの縁だな"と読みふけった。
 キミ子方式が生まれる約10年前の美術教育の雰囲気が伝わってくる。
 その喫茶室にイギリスの草花もようの美しい紅茶茶碗セットも売っていた。時代を感じさせる古色した喫茶室で、そのティーカップは場違いに華やかだった。
 帰りの受付の売店で『岡山市立オリエント美術館蔵品図録』を買った。その図録には
 「一般に美術館の図録というと、大判写真を連ねた名品紹介の類が多いようですが、本図録の編集方針はそれとは対象的な立場に立っています。つまり写真はやや小さくなっても、なるべく多くの資料を紹介し、多方面からの要望に応ずることに主眼をおきました。」と書いてあって
 「これだ! こんな図録がほしかったんだ」と、すぐ編集者の名前を見た。そして私の手帳に記した。ファンレターを書こうと思ったのだ。
 多くの人がやっていることに疑問をもち、さらによい方向へと自分の考えを一歩ふみ出す人に、私は過敏に反応する。
 その年の年末、ニュージーランドに行った。ニュージーランドから、感謝のハガキをと、私の記帳した名前を見ると「藤井純子」となっている。確かに男の名前のはずが、私の書き間違えたらしい。よくこういったことがある。
 それから何カ月かたち、又、岡山オリエント美術館に行き、喫茶室でチーズケーキを二個食べ、岡山の女姓たちの手によるミニコミ誌をパラパラめくり、思い切って受付で
 「こんなすばらしい美術館の図録を作った藤井純夫さんを尊敬しています。おめにかかれないでしょうか?」とチーズケーキ二個分の勇気で言った。「藤井先生は今年四月から○女子大の先生になられて、もういらっしゃいません。」との答えが返ってきた。
 <あぁ、ニアミスだ>

プールで会いましょう

 そんなころ、岡山「あーと・いん・きっちん」という主婦四人グループから講演の依頼があった。東広島で出会ってから二年くらい後ではないかと思う。
 トントン拍子に、定期講座が続きそれがもう四年くらいになる。
 この「あーと・いん・きっちん」グループは、私に何の心配もさせない。私は大船に乗った気分で、ただ主催者まかせで毎月通うだけである。
 毎年受講者が増えて、今年は70名くらいいるそうだ。
 このグループ、おいしい食べ物のお店を見つける天才でもあり「キミ子さん今度また、いい店みつけたよ」と声をかけてくれる。
 そして、ついに今年の夏のキミ子方式全国大会in倉敷を開催してくれる。
 初日のディナーパーティはフランス料理だそうで、その時の衣装ももう四人決まっていると言う。
 藤井先生に講演をお願いしたが、その時、海外におられるということで、残念ながら不可能になった。
 <あ、又、ニアミスだ>
 今年の会場である、倉敷シーサイドホテルは前庭の芝生の向こうに海が見えるというリゾートホテルである。
 その海を眺められる位置にプールがある。私はそこで泳ぎたくて、今スイミングスクールに通っている。
 「そのうち水に慣れますよ」と20代の男の先生は、習うより慣れろ主義である。
 私の息子の本棚から『スタートスイミング』という本を取り出し、ベットの上で、本のとおり手足をバタバタさせている。
 今年は倉敷の全国大会で、楽しい話題をもって会いましょう。大原美術館もすばらしいけど、夢二美術館とオリエント美術館へもどうぞ。
 プールでどなたか私に泳ぎ方を教えて下さい。

(※)創美[ソウビ]創造美育の略
一九五二年(私が12才の頃)久保真次郎らが結成した創造美育協会を中心とする創造主義美術運動によって提唱された美術教育の理念と実践。
 子どもの自発的な絵画表現をとおして、その創造力と個性の伸長をめざした。これが狭隘な技術主義に陥っていた戦前からの図画教育に一つの解決方向を示した。また、それは美術教育の改革にとどまらず、機械文明による人間疎外と日本に残在する封建生の克明をめざす『美術による教育』(H・リード)の主張であった。この運動は大正期の山本県らの自由画教育の精神を受け継ぎ、19世紀末からの世界新教育運動や美術革新運動と連動した児童美術の独自性や美術性に着目する動向の一端であった。「創美」の思想的射程は古い知性のみならず感情をも否定する新たな知性の形成であった。
社会的心理的制圧、とりわけ感情の開放を強調したが、・開放が心情的 ・作家が感覚的 ・指導が非体系的 ・児童画による心理分析の過度の適用、という批判を生んだ。
 (山田康彦)  『教育学事典』(労働句報社)より抜粋。
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