エッセイ目次
 

No113
1998年9月4日発行


10年目の歌津

 ・ほいど・って何?
 久しぶりということはわかっていたけれど、十年ぶりだったとは。歌津町の民宿の広間に集まった懐かしい顔々を見渡しても、何だか皆さんちっとも変わってない。歯医者さん、そこのスタッフ、保健婦さん、保母さん、自動車修理工場夫人、花屋さん、そしてワカメ博士。新しく加わった人はお巡りさん、文化協会の人。そして「キミ子方式」を教えて十年めの石巻に住む鶴岡貞子さん。十年前、ワカメ博士は私のことをマニキュアしているので「タヒチの女」と言った。
 「今年はセンセはスペインのほいどでおいでなさった。」と言って、皆んなはドッと笑った。私が「ほいどって何?」と訊いたら、また皆んながドッと笑った。〈ほいど〉というのは〈物もらい〉とか〈乞食〉という東北弁(歌津弁)なのだそうだ。それを教えてもらった瞬間に、私も笑いで吹き出してしまった。あまりにも名言。その夜は、新潟のスキー場に住むSさん手作りの幅広マフラーでできたチェックのポンチョを着ていたからだ。
 「十年前が最後の日だったよね」「いや、もっと前じゃないか、ウチのやんちゃ(子どもの事)がまだガキで、今十九才だから」。笑ったり、前回最後の年を、それぞれの想いの中で引き算しながら数えたりして、でも肝心の主人公がこの席にいないことに、恐らく皆さん気づいていただろう。歯医者夫人のミエコさんだ。彼女はここ十年、病の治療のために病院に入ったり出たりして、今日この日、楽しみにしていたのにどうしても治療室から出られず間に合わなかったのだ。今回の治療は厳しいものであると聞いた。
 新人のお巡りさんが聞く。「センセイ(私)とセンセのオクサン(歯医者夫人)とはどんな関係?」
 一九八二年八月、私は初めての本『三原色の絵の具箱』を出版した。それから一年ほどして、ある日電話が鳴った。「あのー、キミちゃんじゃないですか?やっぱりキミコセンセイだ。わたしミエコ。中学の時、英語を教えてもらっていた・・・」。
 私はすぐに、色白でいつもニコニコ顔の背の高いスリムな少女を思い出した。私が自宅で浪人している頃、学費稼ぎのために英語塾をやっていた。その時の四人の生徒の一人だ。
 「今、東北の三陸海岸の一つ〈歌津〉という町に住んでいるの。海の入り江の風景がすばらしいし、六月にはウニが腹いっぱい食べられるので、その頃にきませんか?」
 ウニの解禁日には、朝、町中にサイレンが鳴り、それを合図に海に入り夕方のサイレンまで獲っていいそうだ。六月の三週目が解禁日らしいので、そのあたりに合わせて絵を教えに行くことになった。

 絶対これはキミちゃんだ!
 一年目はミエコさんに再会するのとウニを食べるのが第一目的で歌津に行った。その時、参加者が青森や仙台など東北一帯から八十名以上の人が集まり、町長や教育長が驚いたそうだ。「こんな田舎に大都会から人が集まるとは・・・」と。
 その中に東北福祉大の教授や鶴岡さんが幼児三人を連れて来ていた。
 町の中学校を借りて、一泊二日で講演と実技をやった。主催者代表の歯医者夫人ミエコさんが挨拶した。
 「キミちゃんは、アッ、いけない。キミ子先生との再会は、妹の旦那が小学校の先生で、急に図工を教えなければならなくなって、参考書を探していて『三原色の絵の具箱』(ほるぷ出版)を見つけたんです。その著者がどうやらキミコセンセイらしいと妹が電話してきたんです。さっそく私も本を買いまして「北海道出身」「絵をやってる」「名前はキミ子」。
 でも、絶対これはキミちゃんだ、いえキミコセンセイだと判ったのは本の中の写真に写っていたキミコセンセイの黒板の字。くしゃくしゃの文字(大爆笑)私の大好きな懐かしい文字。あの文字って変わらないものなんですね。驚きました。」(爆笑)
 「私は中学の時、キミコセンセイの家に英語を習いに行ったとセンセは思っているでしょうが、実は違うのです。センセが用事で室を出た時、私達生徒はそれーっ!てセンセの机の引き出しを開ける。そこにはラブレターがびっしり。それを読むのが楽しくて通ったんです。ラブレターとはこうして書くのか・・・。今でも暗記しているフレーズがあります。ラブレターの書き方を学習するために行ってたんです。」

 その翌年も「今年のウニの解禁日は六月××日あたり」それを合図に、歌津町へ行った。町中の人たちと絵の会をやり、中学校では授業もやらせてもらった。確か〈バケツ〉の形の取り方の授業をやった。


 三人の中学生
 歌津町に行って、三年めだったのだろうか。ミエコさんから「今年もどうしても来てほしいの、私の家は中学校の隣にあるでしょう? 下駄箱がわが家の窓から見えるの。その下駄箱の前にいつも三人の中学生がタムロしているの。彼らは授業の邪魔だからって、教室に入れてもらえないの。ほんとはとってもいい子たちなのに。そんな彼らにキミ q方式の絵の楽しさを教えてあげたいの。」
 三年目のテーマは〈毛糸の帽子〉だった。彼ら三人が絵を描くために絵の会場である中学校の図工室に入って来た時だった。町中の人、特に中学生が恐いものを見るような動揺が走った。彼ら三人は四つ切りの画用紙六枚ぐらいつないで〈巨大な毛糸の帽子〉を描く子と〈繊細な毛糸の帽子〉を描く子、〈実物大近くの毛糸の帽子〉を描く子とそれぞれが個性的だった。町中の人が彼らが絵を描く姿を確認した。
 翌日、中学校の校庭で教育長と偶然行き会った。教育長はしみじみと言った。「彼ら三人は中学校の三年間で初めて教室に入って、まともな勉強ができたんです。先生ありがとうございました。」そして深々と私にお辞儀をした。両目に涙がいっぱいだった。私も涙がふき出した。

 あの三人のうちの一人の少年は船乗りになった。遠洋航海だ。初航海の日、もちろんミエコさんは船出を見送った。彼は赤道通過の記念日にミエコさんに感謝の電報を打った。「キミちゃん、聞いて。巨大な毛糸の帽子を描いた子から電報がきたのよ。今読み上げるわね。それから、電報の宛名が私ではなくて夫なのよ。大人よねー。」ミエコさんの声ははずんでいた。その少年は、今や一人前の船乗りになり、二十六才の若さで自分の家を建てたそうだ。

 十年目の歌津町
 ミエコさんのいない十年目の歌津町、今年は民宿に泊まった。すぐ前は海だ。
 歌津に行って四年目からは、私の絵の会のために歌津町から予算をいただいた。しかし、ミエコさんの病気が発見されて、治療のために仙台の大病院の近くに彼女と子供三人が引っ越すことになった。でも歌津町では保育園で「キミ子方式」の絵が並び、町のリハビリセンターでは毎年一回「キミ子方式」の絵を描くことになった。最初の頃はミエコさんが仙台から教えに行った。私は電話で「キミ子方式」のレクチャーをしたりした。
 それは今日まで続き、今は鶴岡貞子さんが教えに行っている。今年は「サンマ」の絵を教え、保健センターの〈健康祭り〉で展示されたそう だ。
 それが毎年続いたおかげで、私は今年、その地域の保健医療研修会の講師によばれて行った。その翌日、十年振りの歌津町で絵の会が開かれることになったのだ。

 時は秋、晴れている朝だが、山の陰の海は暗く淋しい。そこはカキの養殖場になっていて、ウキが海面に並び小舟がその間を行き交う。
 そんな風景を見ていたら、突然ふと、もうミエコさんと、この町の入り江 フ風景を見ることもないかもしれないという想いがよぎった。そう思ったら、どうしても朝陽を見たくなった。海から昇る朝陽を見たい。隣室でまだ寝ている鶴岡さんを起こし、朝陽を見るために鵜島海岸の岬へ向けて車を走らせてもらった。
このページのTOPへ