エッセイ目次
 

No132
2000年4月4日発行


二つのうれしい電話

 私は電話が苦手である。早く連絡しなければならないことがあると、今ではFAXが一番好きだ。外国との交信はEメールの方が早くていいが、Eメールは絵が描けないので面白くない。事務文書のみという感じになる。どうしても電話をしなければならないことは、ぐずぐずと後まわしになる。外国暮らしが好きなのは、電話がないことも理由の一つだ。
 私が、初めて電話を使ったのは十九才の頃だ。北海道の片田舎から(テレビドラマ「すずらん」の駅は私の駅から二つ目)東京に出て来た時である。当時は電話交換手を通した電話の時代であった。
 電話番号をまわすと交換手が出る。そして、何かを交換手が言った。その東京弁らしき言葉がわからない、早口でわからないのだ。
 私は、「エッ?」と聞き返した。そうすると交換手がまた何かを言う、先程と同じ早い口調。私はまた、「エ?」と聞く。日本語と思えない同じ口調でくり返すだけだ。「なんと言いましたか?」と私は聞いた。そうすると「いいかげんにして下さい!!」という怒り声で、ガチャンと電話が切られてしまった。それ以来、電話恐怖症である。
 私の息子たちが小・中学生の頃は、彼らの学校からは苦情の電話しかこなかったので、ホトホト電話恐怖症になった。
 何時だったかハワイ経由でニュージーランドから帰って来た時、ダブルブッキングで私の席がないという場面にでくわした。
 予定時間通りには帰れず、他の飛行機に乗り換えねばならなかった。だから、成田へ迎えに出ている予定の日本の家族に電話連絡しなければならない。電話が苦手の私はあたりかまわず日本人をつかまえて、電話のかけ方を教わったら、交換手がでてくるやり方であった。
 「あー、又、交換手の言葉がわからない。」日本語ではなく英語ときているから、一九才の頃どころでなく恐怖である。しかし、五〇才過ぎた私は生活の知恵がついている。そこで、相手が何を言おうが無視して、ただひたすらこちらの用件のみをまくしたてることにした。
 「コレクトコールと○○番号へつないでほしい。」とそればかりくり返した。そして連絡に成功した。
 今では外国でどうしても電話で連絡をとらなければならない時は、テレフォンカードの使い方などは、近くにいる誰かをつかまえて聞くことにしている。イタリアのテレフォンカードは、角を落とさないと使えない仕組みになっていた。
 先日、羽田空港で自宅に電話をしようとして公衆電話にカードを入れようとしたら、私のカードが入らない。電話機のカード入れが小さすぎるのだ。〈おかしいな?〉と隣の電話に試す。それもダメだった。別の場所の電話を探す。しかしダメだった。世の中が変わっちゃったのか、私のカードはもう古いのか、新しい機械がどんどんできるからなあ・・・としみじみカードを眺めたら、それは地下鉄のカードであった。


 うれしい電話
 ある日「北海道新聞の記者、先川ですが・・・」と電話があった。なつかしいキューバで、ヘミングウェイが行った酒場やレストランでごちそうしてくれた人だ。
 「今どこですか? 東京? 北海道?」とあわてる私に、
 「いや、ワシントンですよ・・・」まるで、同じ東京からの電話のように違和感がない。
 「松本さん、僕、うちの犬スケッチしたら描けたんですよ!」とうれしそうだった。
 「それに、娘にも、犬は鼻の頭から描くことを教えたら娘のきげんが直って、うれしそうに描きました。やあ、すごいですね・・・」
 彼はフィデル・カストロの独占インタビューのためにバハマに来ていた。しかし、カストロ出席予定のパーティーが一週間延び、急にヒマになって、私の取材をしてくれたのであった。その時は、ヘミングウェイの通ったレストランで、ヘミングウェイが愛したお酒を飲み、料理を食べ、私はキミ子方式をしゃべり続けた。
 翌日、日本大使館での絵の授業にも来てくれた。その時、大使館にプレゼントしてあった私の『カット・スケッチの描き方』(仮説社)を見て
 「犬のページ、コピーさせて下さい。僕もこのやり方なら描けるような気がするので、うちにゴールデンレトリバーがいるんです」と言っていた。
 先川さんは、ついにワシントンで愛犬のスケッチに成功したのだ。
 「必ず、北海道新聞の〈ひと〉という欄に松本さんの記事を書きます。いつになるがわかりませんが・・・」
 その記事が十二月二三日の北海道新聞に載った。多分、そのことがきっかけで思い出してくれたのだろう。
 一月末日にニューカレドニアから日本へ帰ってきたら、留守番電話に「帰国されたら大至急連絡下さい。拓殖大学、北海道短期大学の・・・」と、せっぱつまった声が入っていた。
 電話苦手の私は、重い気持ちで連絡したら、
 「専任教授が急にやめられて学校がパニックになっています。今、教員同士あちこち手分けして専任教授を探しています。松本さん深川市にお兄さんがいることだしどうですか? 北海道に住んで東京に通われたらどうですか?」
 というわけで私は四月から北海道に住んで東京に通うということになった。
 父母の墓があり、長兄が住む、北海道深川市の大学からのお誘いであった。
 父母が死んで今年は三〇年目である。故郷での田舎暮らしがとてもうれしい。静かな心境ですごしたくなった


 もう一つの電話
 もう一つ、最近のうれしい電話は、「松本さん、あの『カット・スケッチの描き方』の本を見て、私、私の時計のロレックスをスケッチしたのよ。それが自分でもおどろく程うまく描けちゃったのよ。そしてね、ベルトのところが少し壊れかけているのを発見したのよ。絵を描くって、すごーく細かく観察してしまうのね。描かなかったら壊れているの気がつかなくて落とすところだったわ。又、二〇〇〇年も教室に通います。どうぞ、よろしく。」茅ケ崎の○○さんからだ。
 ロレックスってすごい高い時計なのでしょう? キミ子方式の教室二〇年分の授業料どころではないのでしょう?
二〇〇〇年五月から新しい教室が始まります。ひとりでも多くの人に、絵を描くよろこびに協力できることをうれしく思います。今年度もどうぞよろしくおねがいします。


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