日韓交流研究大会&釜山スケッチツアー
行ってきました ー日韓交流研究大会ー
松本キミ子
「たのしかった」という想いがまずはじめにあると、内容を忘れてしまいそうだ。
今回もそうだ。思い出すと楽しくて、楽しくて、笑いが出てしまう。
行く前は、講演の内容を日本語で書き、それを今回の大会を開催するにあたり連絡係をしてくれた、愛知教育大学大学院生の伊藤仁香さんにハングルに訳してもらったことと、「もしかしたら交流大会で講師をしなければならないのでよろしく」と、日本で活躍するキミ子方式の講師達に、お願い文を書き、そのメンバーが参加してくれたこと、この二つの準備だけで、もう安心だった。
八月七日、成田発十一時一〇分、午後十三時十五分釜山着。なんと早いことか、機内食のサンドイッチを食べ終わりコーヒーを飲んだら、もう釜山に着いた。
成田組十一名が空港に着くと、名古屋発の便で、二時間前に空港に着いていた愛教大教授の松本昭彦さん、三重から参加の浜中久美子さんと合流し、空港からホテルへ移動する。ホテルには、すでに到着していた鈴木宏子さんと、博多からフェリーで釜山入りした火上清子さんが待っていた。
ホテルに荷物を置いて、さっそく市内スケッチのため、ホテルの目の前のチャガルチ市場へ。
サバが、まるでキュウリのように、五、六本一つのカゴに盛られてずらっと並んでいる。九年前、韓国の仁川教育大学で、キミ子方式の本を制作した時に用意した〈サバ〉は新鮮ではなかった。韓国では、サバは日常的な魚ではないのかと、心傷めていたけど、この市場で見たサバはどれも新鮮だ。
それと〈太刀魚〉。ベロベロと長いのを、ベルトを巻くように丸めて、丸く深いカゴに頭を下に、シッポをカゴの外にびっしり並べて道路でも売っている。白っぽい太刀魚は、色画用紙に描くときれいで、日本の南の方に行った時にモデルにした。大きい割りに安価な魚だからだ。
「あの、ちょっとすっぱいタコがおいしいんだよ」と川合京子の薦めに一山買った。
その分量の多いこと。仲間に食べてもらいつつ、私はずーっと口の中で味わいながら市場を散歩。
タコをはじめ、モモ、ウリ、キュウリ、スルメ。天ぷらを買っている時、「そんなのスケッチのモデルになるの?」と背後で言われたが、おいしそうで食べたかったから、買いたい衝動を止められなかった。
「のり巻き、のり巻き」と、韓国のり巻き大好きな私は探し回ったが、この市場は鮮魚専門らしく、見当たらなかった。しかし、三原色の模様のウチワはしっかり買った。私は海外での買い物は〈ニワトリの小物〉と〈三原色モノ〉だ。
夕食は四時半頃、市場の食堂に入った。観光客用のメニューを持ってママさん登場。
そのメニューを見て「イヤに高いね」と躊躇していると『地球の歩き方』のページを開いて「ここに写っているのは私よ」と店のママさんは、ハングルとボディーランゲージで教えてくれる。
私は〈バラ寿司(日本円で約千円)〉を注文する。隣の席の仲間が「この本に載っている〈焼き魚定食(約六百円)〉は安いね。四人前お願いします」という声が聞こえ、私たちのテーブルもそれを追加。同席していた漆原万里子さんは食べたいものがあるからと一人で食堂を出た。
運ばれて来た〈焼き魚定食〉の量が多いこと。「ぎゃー」っと、声をあげそうになった。私の注文の〈バラ寿司〉は、ご飯が入っていない。韓国の食堂は、何かを注文したら、付け合わせでキムチを始め五、六種類の小鉢が並ぶ。その小鉢に汁とご飯だけで充分という感じだ。食事をしていると、大阪発の便を利用した、鳥取から参加の田中明美さんを迎えに行った一郎と共に合流し、私たちが食べきれなかった焼き魚を残さず食べてくれた。
早めの夕飯のあとホテルで、市場で手に入れたモデルをスケッチ。
スルメの足を、ハングルをスタンプした薄い木ベラで広げている。そのモデルを見つけてくれたのは、今回の旅で初めてご一緒する浜中さん。
港や市場を眼下に眺められる海側の部屋に集まって、スルメをスケッチした。東京から参加の小杉ひろみさんは、なぜかスルメをイカと言う。「ハイ、イカです」と、黒いビニール袋を手渡された時、生イカが入っているのかと驚いたが、最後までスルメの事を「イカ」と呼んで、私を緊張させた。
「イカが泳いでいるところを見たよ」という情報が入った。私は未だにイカが泳いでいる所を見たことがなかった。でも聞いた知識はいっぱいある。「イカって、意外の小さいでしょう。生きて泳いでいる時、あの二本の長い足を隠しているから・・・」
と話したが、又、釜山に戻るから、その時に見ることにした。
いよいよ、交流大会へ
翌朝、ホテルからバスで二時間、交流大会の会場である、韓国慶尚南道の晋州市にある国立晋州教育大学に向かう。バスの中では、ずーっと寝ていた。
会場に着くと、今回の大会を主催してくれた、美術科教授のユン・サンウン先生と仲間たち、通訳をしてくれる伊藤仁香さんと、愛知県の小学校教諭である若者、岩田さんが迎えてくれて、メイン会場になる美術室に案内してくれた。美術室では、韓国の参加者三十数名と、私たちを含む日本からの参加者二十名が席に着き、一人一人自己紹介をした。それからイスだけを前に集めて、私の講演をする時間だ。
私の講演が始まる前に「キミ子方式と、今までの美術教育と、どう違うのか?」と質問されたので、話の中心をそれにもっていけて、結局、キミ子方式とは何か、と基礎を話せた。講演しながら、昨日見た、市場にズラッと並んだサバの活きの良さ、美しさが私を元気づけた。
〈講演の感想〉
共通に楽しめる文化
松浦幸子
同じアジアの国に暮らす日本人と韓国の人たちは、キミ子方式の絵の方法とモデルは共通に楽しめる文化となることがわかって、とても嬉しかった。
イカやサバ、植物のネコジャラシ、動物のニワトリなど、なじみのあるモデルばかりだ。
キミ子方式の絵が人々に伝わっていくと、絵を描くという人生の楽しみが増える。
また素晴らしい国際交流となり、私たち二つの国は友達になれる。いい講演でした
キミ子さんの話を聞いて
鈴木宏子
キミ子さん自身の口から系統的にキミ子方式について聞くことができ、ラッキーでした。私の頭の中を少し整理することができました。
おだやかに静かに話される中に、どんなにいろいろな理想的な逡巡、試行錯誤の実践などあったかと想像してみると、聞かせてもらうだけでなく、自らもキミ子方式で描きながら、つまづき、考え・・・を続けたいと思いました。
韓国の人の、常に力いっぱい話す中にあって、キミ子さんの静かな語りが一石を投
じたかなと期待します。
徹底的にエゴイスト
講演が終わって、最初の講座は〈色づくり〉。ユン教授が教え、私が見学。生徒は全員、韓国の参加者。
出来た色を画用紙に描くとき、コインの大きさに喩えたり、絵の具と水の濃度を「アイスクリームが溶けた様な感じ」と指示していたのに疑問を持った。〈三原色と白から、たくさんの色ができればいい〉という一点に絞て、それ以外は自由であって欲しかった。
今回最大にお世話になっている男性のユン教授に、私は異論を申し出れるかと、一瞬、頭をかすめたが、通訳の伊藤さんに伝えてしまった。
私はキミ子方式に関しては、徹底的にエゴイスト。どんな妥協も許さない。ただし、それ以外はとてもルーズ。
〈もやし〉の講座は私が教えた。またしても生徒は韓国の方々。
驚いたことに、用意されていたのは〈豆もやし〉。これが一般的らしい。葉がついてなく、豆が大きく、根っこも短い。その中からなるべく根の長いのを探した。鮮度はよくて、折れているのもない。
〈豆もやし〉をモデルにした場合「豆の光っている所を、どう描くの?」と必ず質問される。「〈光っている〉という言葉は、絵を描く時に使ってはいけなくて、〈色
がどう変わっているか?〉という言葉に置き換えて下さい」と答えたら、納得してくれたようだ。その質問をしてくれた方は、小中学校の美術教育界では知らない人はいないそうだ。
説明が終わって描き出すと、あっという間に〈もやし)を二本描く人がいて〈一本のもやしをゆっくり楽しむ〉というのが伝わらなかったようだ。後方の席の方だ。
〈早く、数多く、描くのが良い〉という常識が、日本よりも激しいようだ。食堂に行くと、あっという間に食べ物が出てくる。これはありがたいけど、次々とお客さんが来るので、ゆっくり食べてはいられない感じだ。その慌ただしさと同じ感覚で、絵を描いているように感じてしまった。
大会一日目の講座が終わって、夕方、交流会を行なう食堂に移動した。その食堂はユン教授が描かれた韓国画が数多く飾られている。私たちで貸し切りだったので、ゆっくり食べられた。
相変わらず、小鉢にキムチを始め、たくさんの前菜が並ぶ。刺し身がお盆のような大きな丸い、小さな水切り穴の開いた器に、ドバッと山盛り重なって出てくる。
ヒラメのエンガワやタイやら、日本では一切れづつ大事に味わうところが、てきとうな固まりや長さで切ってあって、食べても食べてもなくならない。コンニャクの白合えが美味しくて、三皿もお替わりした。
ハングルを話せる人は、ばっちりコミュニケーション。『地球の歩き方』の単語表や、簡単なコミュニケーション言葉を探したり、『指さし韓国語』の本を開いて笑いあったりしている。
私は四回目の韓国だということと、一回目に韓国に来たときにハングルを学んだこと、ラジオ講座、テレビ講座を何となく見ていたことで緊張がなく、とにかく相手の口調をマネすることができるので、最も初歩的なコミュニケーションができる。
言葉がわからず、ただ一緒にテーブルで食べただけの参加者に、翌日に会場の大学で会ったら、長年の友達のように、ニッコリをした笑顔で挨拶しあった。食事を共に
するってステキなことだ。
青春時代を思い出す
二日目は、チマチョゴリ(韓国の伝統衣装)に色を塗っている日本からの参加者がいる二階の教室に行った。石膏やデッサン、そして油絵が壁にかかっている。油絵の具がついたイーゼルがたくさんある。
ペンで描いたチマチョゴリに「色を着けるときは、イーゼルが便利よ」と、イーゼルの使い方を教える。
美術室で、イーゼルを立てて描いている風景は、まるで美大生のようだ。
高校三年間の美術部、武蔵野美術大学で一年、東京芸大で四年と、私の十六才から二十五才まで過ごした空間だ。そこに信頼できるキミ子方式の仲間が、絵を描いているのが嬉しくて、私は教室の隅にあるフカフカのイスに座って、熟睡してしまった。
その姿を写真に撮られていたのもわかっていない。
うつ病後遺症の私としては、何よりの良薬は熟睡できることなので、この時、心の平穏は保たれていたということではないか。
昼食の〈冷めん〉を食べに、バスに乗って、山の中の一軒の食堂に行った。そこには車がいっぱいとまっていて、店の中は人で賑わう。しかし、手際がいい店員さんが、テキパキと客をさばき、のり巻きも追加して腹いっぱい食べ、満足して早々にバスに乗った。そのバスの中で、川合京子が食堂の玄関の段差を踏み外し、ヒザを切ってしまい救急車を呼び、英語の出来る松本昭彦教授が、病院に付き添ったことを知った。
大学に戻って、川合がいない分、私が二階の美術室でチマチョゴリに色ぬりする人たちを、寝ないで見守った。大会初参加の小林加津美さんも、ステキな作品を描いている。朝から夕方まで、二日間も同じテーマに取り組むなんて、まるで美大生だ。なんという贅沢な事か。
みんなそれぞれ、作品に集中していた。私は美術室で過ごした十年間の日々、青春
時代の日々を思い返しながら、山本 裕さんに、石膏像を指さして「あのミロのビーナスが、現役で芸大を受けた時のデッサンのモデルだったのよ」などと話しかけた。
早めの夕食は一階の美術室で全員が集まり、のり巻き、うどんスープなどの出前を食べて、レポート発表と質疑応答だった。
その発表の中で、今回の大会に向けて、ユン教授を中心にした有志が、毎週水曜日に集まって、キミ子方式の勉強会を続けていたことを知った。今回〈モヤシ〉を私が、〈イカ〉を松本一郎が担当した以外、〈色づくり〉〈毛糸の帽子〉〈はがき絵〉〈空〉〈髪の毛〉は韓国スタッフが担当して、どの作品も完成度の高い作品になっていたことに納得できた。
そして、日本の参加者は、神奈川から参加の鬼沢明男さんが、自分が勤める中学校の支援学級での実践発表。
愛知教育大学の松本昭彦教授が描かれた肖像画の制作方法を、キミ子方式と同じに、一点からその部分を完成させていく「十五分集中法」で、初めから全部のことを思うのではなく、とりあえず今からの十五分だけに意識を持って部分に集中し、徐々に画面を広げていく制作過程を解説した。
小学校教諭である、広瀬由美子さんが、小学三年生に教えた〈色づくり〉の作品を並べて、一人一人が自分の作品につけたタイトルを発表。小学三年生の奇想天外なタイトルに、通訳する伊藤さんの大混乱。まるで、なぞ解きのように韓国の人たちが盛り上がる。
そして、ユン教授が「出来た色を描く丸の大きさや、絵の具の濃さも自由にする方
が楽しいですね。小学生の作品を見て、良く解りました」と言ってくれたのでよかった。
「八時にバスが出ますよ!」の声に促されて、朝十時から夜八時まで、びっちり二日間のキミ子方式日韓交流研究大会は終わった。
ホテルに戻り、ベッドでオリンピックを見ていたら、韓国の柔道の選手が金メダルをとったのを何度も放送していた。韓国の男性も女性も表情が若く美しいのは、食べ物だけのせいではないのか?
釜山に戻り、スケッチ晋州市から、又、二時間バスに乗って釜山に戻った。私は、イカが泳いでいるとこ
ろを見る事。もう一度、韓国のり巻きを食べる事。川合京子はサンゲタンを食べる事を楽しみにしていた。
釜山に戻った仲間たちは、私たちの部屋で、チマチョゴリを完成するまで描いている。神奈川から参加の鹿野孝子さんは、後少しで完成するチマチョゴリを熱心に描いていた。
その夜、二晩目なので慣れ親しんだホテルのベットで「今回は何事もなくてよかったね」と川合京子。「あっ、私の段差事件(ヒザを十二針縫った事件)以外はね」と二人で大笑いした。