エッセイ目次
 

No67
1994年10月4日発行


くぎの指輪

 東京都国分寺市の公民館から講演依頼があった。
 この街の中学校で、一九七九年に産休補助教員をしていた。
 その中学校に勤務した時に、初めて自分の作品は、自分で評価するということを実践したので、よく覚えている。
 その時の教え子に会えるかもしれないと、ワクワクしてひきうけた。
 その学校は、スペイン留学から帰ってきて二年後の、中学校勤務だったので、日本の中学校の異様さがすごく気になっていた。
 「20分休みや昼休みは、職員室に戻って来て、常に廊下やトイレを見張って下さい」という先生達を無視して、校舎から離れた別棟の美術室に逃げ込んでいた。中学生達とは被害者仲間だった。
 そこで「絵のかけない子は私の教師2」(後に『授業科学研究2』に掲載された)を印刷し、ぺ-ジをそろえたりして作っていた。
 一点からとなりとなりと、キミ子方式的掃除の仕方、又は、ミヒャエルエンデ著『モモ』のベッポおじさん式掃除の仕方を教えると、掃除当番以外の人もどっと美術室にやってきて、ワイワイガヤガヤと世間話しをしながら掃除をたのしんだ。
 世間話とは、私の考えていること、私の読んだ本、私の見てきたヨーロッパのこと、留学生活、それらを語りながらの掃除。
 授業中は、絵を描いたり、彫刻をしたりで、雑談の余裕はないけれど掃除の時間は哲学の時間、ゼミナールの時間だった。
 中学生は、充分に私の相手になりえた。
 「掃除をさぼる生徒が多すぎる」という職員室の話題は、まるで美術室には関係がなかった。
 当時、空手を習っていた。夫の暴力に勝つためが目的だったのだけれど、ちょっと暴力的に私を脅かす、不良っぽい中学生にも、全く恐怖なく、ニッコリと筆をもたせて絵を描かせられた。絵さえ描かせれば、すぐお友達になれた。

 職員室でのイヤな想いを除けば、最高の中学校勤務の思い出だ。
 職員室で、私がいかに孤立していたかというと、どの学校でもやらせてもらった研究授業を「産休補助教員のくせにでしゃばるな」「産休補助教員という立場を理解していない」と、同僚の産休補助教員に説教された。
 そして、研究授業の当日、誰一人として、その学校の教師は見学に来なかった。
 教頭が二回くらい、美術室の前を行ったり来たりしただけだった。  もっとも、仮説杜の竹内社長をはじめ仮説実験授業研究会の仲間が六人ほど来てくれた。同僚に見せるための研究授業ではなく、記録する、研究するためだから平気だった。
 私は心の中で〈教師の数は五○人、生徒の数は五○○人。生徒はまだ10代、教師は40代。どちらを味方にするかといったら、人数が多く、人生がたっぷりある生徒の方が・・・〉と、つぷやいていた。
 私は、いつかキミ子方式の本を出版したいと思っていた。その時に本を買ってもらえるのに必要なのは数と年数だ。私はやっぱり、自分中心に考えていたのだ。

 久し振りの国分寺本多公民館は、見ちがえるような近代ビルに変化していた。道路も拡張されていた。斜め向かいの消防暑だけは北向きで、暗い感じが昔のままだった。
 講演のあと、
 「何か質問ありませんか?」と、ドキドキして間いたら
 「ハ、ハイ」と30歳近い、ちょっと地味な感じの女性がおずおずと手をあげた。
 「あの-、先生、クギの指輪していませんでしたか?」
 「エッ!!」あまりにも唐突。講演の内容から離れすぎている。
 「はい、してました」
 「やっぱり」と、婚しそうに「私、国分寺一中で、先生に教わりました」
 「エッー(うらやましい)」と、羨望の声がドッとひろがった。ところが、質問に立った彼女は
 「先生のクギの指輪は忘れられないのです」と、手を上げた時の様 子とうってかわって堂々と言うのだ。
 〈がっくり〉
 彼女の私に対しての思い出が、私の放課後ゼミナールのことでも、キミ子方式のことでなく"クギの指輪"のことだったとは。
 クギの指輪とは、私が20代後半のことだ。夫は彫刻家で、いつも家にいるので、私は自由になれない。
 私は一人になりたくて、本や筆記用具を抱えて、喫茶店に行って本を読んだり、友達への手紙書きをしていた。

 当時、私の住む街のとなりの立川市には、米軍の基地があった。
 私が昼間、一人で喫茶店にいると、アメリカの若者が、あれやこれやと話しかけてくる。
 「アメリカ人って、どうして女たらしなの?」と、アメリカ人と結婚している友人に言ったら、
 「左手のくすり指に指輪をしていない女性には、積極的に話しかけるように教育されているのよ。つまり、独身の女性に話しかけないのは失礼というわけよ。そして、結婚指輪をしている女性には、決してそんなことはしないわ。それが彼らが受けた紳士教育なのよ」と解説してくれた。
 私は家に帰るなり夫に訴えた。
 「指輪がないと不便なので、指輪ほしいわ」
 「ヘえ、あんたそんな俗人だとは知らなかった。」
 「ちがうのよ・・・喫茶店で一人静かな時間を過ごすには・・・」と説明するが、彼は「あ-おどろいた指輪がほしいだなんて」と私の説明は聞いてくれない。
 それから、一週間も過ぎただろうか。
 「はい、指輪。サイズが合うのを選んだら」と言うなり、タ会のテーブルの上に30個ばかりの指輪を、ジャラジャラと広げた。
 クギを平たくして曲げたり、銅線や針金を蛇のようにグルグル巻いたりした、手作りの指輪だった。
 「ありがとう」と、あれこれ試したら、わたしの左手のくすり指に合うのは、クギを平たくたたいて曲げた指輪だった。
 「これでよし、明日からゆっくり喫茶店で読書ができる」
 その時から、私ばず-っと、クギの指輪をしていた。そして、ほんとうに静かな時間を過ごすことができるようになった。『絵のかけない子は私の教師』の原稿は、すべて喫茶店で書いた。

 中学生相手に、そんな話をしたのだろうか。その質問した女性の、講演が終わった後の感想文は「松本先生のクギの指輪がすてきで、ずっと債れていました。私がもし結婚することになったら、結婚指輪は絶対、クギの手作りの指輪にしたいと思っていました。そして、ホントに彼にたのんで実現したのです」と書いてあった。
 まさか-、そこまでクギの指輪に憧れていたとは。
 さて、こんなに一人の少女を魅了したクギの指輪にも弱点がある。  石彫をやっていて、指がパンパンに太くなって、指輪が指にくいこんでしまった。鉄なので柔軟性がないのだ。指を切り落としたくなるほど腫れて苦しんだ。石彫にクギの指輪は合わないのだった。
 その後、金属アレルギーになってクギの指輪はつけられなくなった。そして指輪を作ってくれた人とは離婚して14年が過ぎた。
 今は、姉からもらった金の指輪一個を左手の中指に、青森の歯科技工士の萌出さんの作った指輪二個を両手のくすり指にしている。
 仮説実験授業の全国大会で一個買ったら、一個プレゼントしてくれたので、一個一七五○円になる、本物のプラチナだ。
 先日、人間ドックに言った時、知り合った看護婦さんが
 「松本さんの指輪、ギリシャでお買いになりませんでした?」と間かれたので、
 「いいえ、青森の科学をする歯科技工士さんの趣味の手作りなの」と答えた。  この指輪が今、気に入っている。

それにしても、人に与える影響というのは、自分の想像をいえるという不思議な現象である。
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