エッセイ目次 No15~69

 NO70~99  NO100~130 

NO 発行日 タイトル 内容
68
69
1994年12月4日 赤いカーディガン 中学生の時に母にかってもらった赤いカーディガン。その後も赤いカーディガンに関係する出来事がつづく。思い出深い赤いカーディガンにまつわる思い出話。
67 1994年11月4日 クギの指輪 東京都国分寺市の公民館で講演の時に、昔、教え子だった女性から質問の時間に「クギの指輪をしていた」ことをはなされる。人への影響というのは、自分の想像を超えるという話。
66 1994年10月4日 やかん キミ子さんが貧しかった頃、親友の清水ちえ子さんからやかんをプレゼントされた。その清水さんがガンで亡くなった時の追悼文。
65 1994年9月4日 バルセロナに行こう キミ子方式を発表した時に誰にも認めてもらえずスペイン留学を決意、実行する。スペインの語学学校のクラスメートや、ガウディにまつわる思い出。
64 1994年8月4日 少女と仏像 アートスクール生だった、U子さんのこと。 ある日、ウサギの彫塑の後「仏像」を作りたいと申し出る。仏像は人が作ったものだから小学生のころに亡くなった父親の顔の彫塑をしようということになった。
63 1994年7月4日 今年の全国大会は
岡山・倉敷で
94年、夏、全国大会の開催地「倉敷」の紹介。 岡山オリエント美術館へいった時のことを中心にしている。
62 1994年6月4日 徹夜の翌日 愛知県豊田市の小学6年生に、似顔絵の授業した話。 画用紙の半分に、教える前の自分の絵を描き、残りの半分にキミ子方式で描いた似顔絵をという試み。 奥村典子さんが、授業の感想を書いている。
61 1994年4月4日 水泳を習い始めた 自分の苦手な水泳を習い始めたキミ子さん。「絵がかけたらなぁ」と思う人と、「泳げたらナァと思う自分とは同じだ。
60 1994年3月4日 傷を癒してほしい 東京都北区の福祉園へ絵を教えにいった時に、担当の女性が「なぜ、絵が嫌いになった」という話と、キミ子方式の絵は描く人の心証には関係ないという話。
59 1994年3月4日 過去は振り向かない 10年以上前に産休補助教員をしていた時に、自由に描く「似顔絵」の作品で、心理分析の題材にしていた過去。その事を悔やんで、キミ子方式で描けば、絵に対しての心理は直接関係がないと気づく。 その事もあって、大阪、春日小学校4年生の子ども達に「似顔絵」の授業をする。
58 1994年2月4日 アメージング 94年正月、年末旅行、ネパールの思い出話と、その後に行ったニュージーランドで、現地の人にキミ子方式を教えた時の話。
56
57
1993年12月4日 電話でレクチャー 天候不順で飛行機が飛ばず、退場に間に合わなくなった為、会場にいる世話人に、描き方の手順をフアックスで送り、遅れたキミ子さんが会場に着くと、手順にしたがってみんな絵をつくっていた。そういえば昔はみんな、描き方や考え方を電話で教えていたなぁという思い出話。
55 1993年11月4日 貴重な休日 清水真砂子さんが援護してくれて続けていた青山女子短期大学「児童文化」の最後の授業の感想文から、キルト作家の前田順子さんの作品展を見に行った時の話。
54 1993年10月4日 見る目のちがい 高知県安芸で行われた全国大会で、魚もモデルを買い付けにいった時のこと。
53 1993年9月4日 こだわること キミ子方式をするうえでこだわっていることはなにか、それはきっと合理的な絵の描き方ではなく、自分のたのしを追求することなのだ。全国大会の時に「空の絵はがき」の大量生産をするというレポートに答えて。

52

1993年8月4日 梅雨空の下で 出張の仕事への道中で、見かけたり、出会った人の話しを中心に、絵を描き終わった後に、自分以外の人の作品がステキに見える時は、自分の思いを言葉にかえて相手に伝えよう。そして、おたがいに気持ちよくなろう。
51 1993年7月4日 なぜ 絵を教えるの? チリの映画「100人の子どもたちが列車を待っている」の感想を書いている。その映画から、創造するとは、物を見る目を育てることであり、考える力をつけ、自分を発見することである。キミ子方式で絵を教えるとは、そのことを伝えたいのだという話。

50

1993年6月4日 南国土佐へ行こう 93年夏、全国大会の開催地、高知。 ほるぷ出版の小松さんとの出会いや、高知の郷土料理、伝統工芸の話。
49 1993年5月4日 絵 10年たちました 1983年頃、神奈川県藤沢市辻堂公民館で知り合った大町登喜さんから、個展の案内状をいただき、個展を見に。彼女との再会したときの話。
48 1993年4月4日 自然のものを
自然の流れに沿って
岡山で行われたキミ子方式特別セミナーの会場になる「百姓屋敷 わら」で見つけた旧友川口由一さんの著書をみつけ、彼の「耕さない農業」についての考察。
47 1993年3月4日 私の未来は 80歳の母が絵を描いた展の紹介記事。 4人の熟女たちに、自分が勇気づけられたという話。
46 1993年2月4日 旅の目的 古い友人であるバーネットさんが病気でなくなり、彼女の面影をもとめて彼女の故郷ニュージーランドにいった時の話と、彼女との思い出話。
44
45
1992年12月4日 人生交差点 第4期アートスクール生の生徒一人一人の思い出話。
43 1992年11月4日 どうして
こんな楽しい事、 教えないの
キミ子方式を学校の先生へ教えても、その先生が自分の生徒たちにキミ子方式を教えてくれないという話を中心に、絵を描くことは楽しい、そして絵を教えることはもっと楽しい。
42 1992年10月4日 ススキの季節
大人の絵?子どもの絵?
「子どもの絵はすばらしい」という言葉に対して反抗心をいたいているという話しから、でも幼児から学ぶこともあるという例をあげ、ススキは大人よりも子どもの方が楽しんでもらえる題材ではないかと投げかけている。
41 1992年9月4日 ザリガニ今昔物語 ザリガニというテーマをするきっかけと、ザリガニの足の先のツメが2本と1本に分かれているという話。
40 1992年8月4日 人との出会い キミ子方式をまとめて、発表しても、だれからも相手にされずスペインに行こうと決意、スペイン語を習いに行ったさきでクラスメートだった奥内さん。帰国後おこなった個展に来てくれて、作品をかってくれたという思い出話。
39 1992年7月4日 入門教育のすばらしさ

女性の社会参加、自立には、年齢に関係なく誰でも絵が描ける「キミ子方式」を教えることがいい、そして美術入門教育であるキミ子方式。入門教育こそ教育なのだ。

38 1992年6月4日 鳥取点描 92年の全国大会の開催地鳥取、倉吉。その土地に学生時代の友人の彫刻を発見する。学生の時の思い出。
37 1992年5月4日 トモダチ キミコ・プラン・ドウのゴールデンウイークにおこなった作品展に高校時代の友人たちが見に来て、当時の思い出話しに花がさく。
36 1992年4月4日 鳥取風景
-バカ正直・非常識-
バカ正直といわれたキミ子さんのお母さんの思い出話。学校の中でおちこぼれていくのは、バカ正直のためなのではないかとアートスクールに来ていた少女をみながら思う。バカ正直・非常識も、時として武器になるのだ。
35 1992年3月4日 多様性と多層性 宇都宮市で行われた「文化のまちづくり全国大会」の「自然と都市文化」の分科会でパレリストをした時に、自然を愛するにはキミ子方式で絵を描くのがいいと、新年をもって発言した時の話。
34 1992年2月4日 インドヘナの村で メキシコシティーからバスで一時間半の町、クエルナバカのスペイン後学校でのクラスメートのことや、その町に暮らす人々との出会い。
32
33
1991年12月4日 絵を教えた ごほうび 島根県米子市郊外の海岸で、砂浜にうちあげられていたイカを捕獲。めったにないことだと地元の人にも言われる。そして徳島で、ウミガメの散乱に遭遇。これもその時期にはめずらしいことだ。きっとそれは・・・。
31 1991年11月4日 偶然か必然か ニュージーランドから来た友人と、芸大へ見学にいく。その時に「秋田蘭画」の研究者「山川 武」氏と話し、秋田蘭画の第一人者の小田野直武の話をうかがう。その後、小田野直武と平福百穂との関係に至る。平福さんの親戚の平福美恵さんは、キミコ・プラン・ドウで絵を習っているという関係が、偶然なのか必然なのか。
30 1991年10月4日 現実から学ぶ 徳島で「海カメ」を描く講座の時に、本物のウミガメが手に入らないので、剥製を使って絵を描いた時に、どうせ剥製だからと実物をよく見ないで説明し、甲羅の数が二枚多いことに気がつかなかったという話。
29 1991年9月4日 対象に誘惑される配置 91年夏、群馬県伊香保で行われた全国大会の話。キミ子方式の描き方が固定化されてくると、モデルに誘惑されるような配置、準備が薄くなってしまうという警告をする文章。
28 1991年8月4日 過ぎし日の思い出 吉野屋(牛丼屋)の朝定食の話と、大阪で昔「モーニングセット」が安かったので食べたら、ぼられた思い出話。
27 1991年7月4日 旅のスケッチ 広島編 昔、広島に行った時に泊まったホテルがよくなかったという思い出話から、講座まで時間が空いたので、公園のベンチに座っていたら、シャツに自分で絵を描いたという、男性との出会い。
26 1991年6月4日 働く女たち そろばん塾をしている福田ハルミさんと、美術館に行った時の話。
25 1991年5月4日 体験と創作 八カ国の学校で学んだ著者の体験記を読んで、8カ国の学校の美術の授業だけを抜粋していく。どの国もキミ子方式を超えるものはなく、そしてその体験も著者の創作だったのではないか。
24 1991年4月4日 モヤシと東北福祉大 広告掲載のために、編集者とライターにキミ子方式を説明していた時に、ライターが東北福祉大出身で、キミ子方式をしていたことがしったと聞いて、キミ子方式を気に入ってくれていた菊池先生との思い出話。
23 1991年3月4日 あまるめの鉄橋 鳥取県、米子市へ講演に向かう途中に、強風のために電車がストップ。その電車は、以前強風のために、鉄橋から電車が転落した場所を通る電車だった。 次の仕事へは無事に着くのか。
22 1991年2月4日 ニュージーランドの柳の下で 90年、ニュージーランドでホームステイしていたキミ子さん。ニュージーランドの柳=ポプラの木で以前に、かこさとしさんと出会った時の話と、その時の状況を思い出す。
20
21
1990年12月4日 リンゴの思い出 通信講座が始まるきっかけの思い出話。 三重県ほヤマギシズム学園に、前に教えた「ニワトリ」の作品と「農作物」の作品を見に行く。
19 1990年11月4日 発想の原点を求めて キミ子方式の発想の原点は、幼い頃、兄がみてきた「手をつなぐ子等」の映画の一部分からではないかという話。
18 1990年10月4日 二つの高校の授業 山形県酒田市、私立天真学園高等学校、調理科3年生に「空」の授業。 三重県、ヤマギシズム学園高等部で「ニワトリ」の授業の話。
17 1990年9月4日 台風の一日 90年、夏。 四国、高知県から広島へと向かう電車の中で、台風と遭遇。電車が動かなくなり、その間の出来事。
15 1990年7月4日 発見とは 無意識と意識化 発見とは、その発見したことを自覚し、それが意味あることと考え、文字に残し、その考えを意識的に普及することだ。と、モヤシの葉っぱの発見から公言している。