エッセイ目次
 

No70
1995年2月4日発行


スケッチツアー

 旅から帰ってきて、ボーッとしている。
 なぜ休暇に海外へいくのか。それは日本語をしゃべらなくてもいいからである。
 最低単位のくらし。食べることと、寝ることと、じっと人や風景を眺める。その単調さにあこがれるからである。
 そして、生徒体験をして、教えることはどういうことかを学ぶため。
 94年の年末は、バルセロナ・パリ・スケッチツアーであった。
 ツアーより一歩先にバルセロナに行き、ホテルマジェスチックに泊まる。
 昔、憧れても泊まれなかった4つ星のクラシックホテル。
 冬のせいか、陽が街路にあたり、あったかそうなのは11時頃だ。その頃から、ちょっと外出するが12時半頃には美術館は閉まってしまう。
 ホテルは画廊街に近く、あちこちの画廊を見て歩く。随分クラッシックな絵が売れている。作品を物色しているカップルは、70代くらいのカップルだ。こういった世代の人々がお金にも時間にも、ゆとりが出来て、絵を買うわけで、そうすればその年代の好みにぴったりの絵が売れるはずだ。
 12月18日午後8時頃、サンツホテルのロビーで待っていたら、スケッチツアーの40名の仲間が、ちょっと疲れて到着。私をみるや「あーっ、先生小さくなっちゃったんじゃない」
 旅に出る楽しみは、過食をひかえること、ほんとうにお腹がすいた時に、食事をいただく。いつでも、どんなものでも美味しく、自分が清潔で謙虚になっていくようで好きなのだ。

 旅行社のKさんが、特にお疲れの様子。
 「まいっちゃうよ。お客さんの荷物一個、どこかにいっちゃったんですよ」
 19日、バルセロナ市内を観光バスで回るのも楽しかった。建物も、ミロ作のモニュメントも、バスからの視線の方がよく見える。
 クリスマス前なので、サクラダファミリアの前の公園やカテドラル周辺は、クリスマスの飾り売りの出店がびっしり。
 40名もの人が一緒では、まるで小中学校の一クラス分。大所帯すぎるのでは?と出発前に心配したのだが、全然気にならない。(か 知っている)仲間達だから。
 沖縄から参加のSさん夫婦は結婚25周年記念の旅。そして東京から参加のHさんは新婚旅行。親子三人、家族四人などが参加していた。
 遠足シーズンなのか、スペインの小中学生、高校生の団体をカテドラル周辺でみかけた。特に幼児の10人くらいが、前後に保母さんがロープを持ち、そのロープに幼児の数だけつりかわのような輪がついている。幼児はその輪をしっかり手で握り、混雑する人混みの中を、電車ゴッコのようにかわいく歩いていた。
 幼稚園ができたんだ。結婚後の女性が、子どもを幼稚園に預けて働けるような社会になったんだ。きっと公立小中学校が充実して、すべての子が学校へ行けるようになったにちがいない。
 危険だから近寄らないようにとガイドブックに書いてあるレアル広場も、朝から酔っぱらいのわめき声も聞くこともなく、物乞いがずっと少ない。
 「オリンピックの時までは仕事があったけど、今は失業中」という独身の50代の左官屋さんも、さあ、これから食事の用意、という感じで、スーパーの袋をぶら下げ健康的。
 サクラダファミリアでは塔のてっぺんに登った。一人では絶対しないだろう。
 仲間と一緒にまわる楽しさ。中学、高校の修学旅行はイヤだったな。でも大学の研修旅行は楽しかったのを思い出した。
 モンジュクの丘ではパエリヤで昼食。このパエリヤは二人前以上でないと注文できないので一人旅では食べられない。食事についてくるワインの量の多さ。一人半ボトル半分以上が残ってしまう。
 さあ、いよいよ、スペイン村でのスケッチ。
 ワインとパエリヤで満腹になり眠気がどっと襲う。一人だったら昼寝以外考えられないだろうに、仲間がいるので、スケッチ。

 20日、カタロニア美術館が閉館中なので、大好きなロマネスク美術や中世の板絵を見たい欲求が高まり、北へ一時間半の(ビック)という街に行く。美術館で午後ゆっくり過ごそうと、午後一時到着。ところが閉館時間だった。「アスタ・マニヤーナ」と言うおじさんに「スペイン最後の日だから五分だけ見せて」と無理を言って見せてもらい、めくるめく板絵の数に恍惚。今度スペインに来る時は、(ビック)と(リポール)そして(ヘローナ)へ行こうと、シェスタで死んだような午後の寒い古都を歩きまわる。
 21日、まだ暗い午前7時半に、パリへ向かうべくバスで飛行場へ。しかし飛行機が二時間以上遅れる。
 スケッチのチャンス。モデルはコーヒーカップと飛行場に乗る乗客。
 パリは小雨。そしてめいっぱい寒い。昼食もキャンセルし、4時には暗い夕方の街を貸し切りバスでノートルダム寺院へ。冬のパリは「憂鬱」という文字がぴったりだ。夜、紹介されていた売れっ子画家に京料理店で会う。「丁度お客さんなのでなんなら御一緒に」という言葉に誘われたのだ。
 日本からのお客さんは女子美大生とその母親、2、3言話していて(多分キミ子方式の話をして)その女性が「○○でお会いしましたね。思い出しました。」と言った。○○とは徳山市にあるジャズ喫茶店。

 22日は、Mさんにくっついて靴屋さんへ。パリの女性は黒一色のスタイルだ。オルセー美術館で昼食、そしてルーブルへ。
 「キミ子方式の生徒さん、みなさん自立しているから楽しい旅ね」と誰かが言ったけど、ニュージーランドやオーストラリアの旅の時も添乗員に同じことえを言われた。
 私もすっかりツアー慣れした。まず、私が好きなように動くこと。助けを求められた時だけ援助する。
 日本の疲れをしょって来た人達が、日に日に好奇心に輝き、開放され軽やかになっていくのを見るのが楽しい。
 一人旅の途中で、日本語を思いっきり使える仲間とのツアーは、本当に愉快だ。
 23日、フランクフルトまでツアーのみなさんと一緒で、みなさんは日本へ。私はポルトガルへ。
 「ナザレ」のレストランで、日本人ということで自己紹介したら「えっキミ子先生ですか?一郎さんにお世話になっています」と突然言い出した人は『ケイコとマナブ』の営業マンで、キミコ・プラン・ドゥによく顔を出していた人。
 「マラガ」のスペイン語学校で机の上に『三原色の絵の具箱』を置いていたら、教室に入ってきた日本人女性。口の中で「マツモトキミコ」とつぶやくや「もしかして、キミ子さん本人?」と叫び。スコットランド人のクラスメートの女性が「キミ子は有名人なんだ」と驚く。
 来年はペルーへ行こう。今度は働いている人も行けそうな日程で。又、旅の途中で一週間か10日、美術館をめぐり、スケッチをし、仲間と喜びを共にする。私の一人旅をより豊かに彩ってくれる。
 旅の痴呆状態が続く中、来年の旅のイメージだけが広がる。
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