エッセイ目次
 

No71
1995年3月4日発行


卒業おめでとう

 昨年の四月から、水泳を習い始めました。
 「泳げるようになりたいなぁ。プールや海を、体を横にして浮いて動くなんてことができるのだろうか」と、毎年、思いつめていました。
 長男が小学校入学の時だったと思います「今年こそ泳げる人になりたい」と思い、丁度、その当時住んでいた日野市の広報に「日野泳法で教えます」と呼びかけがあったので、参加しました。
 第一日目に、知らないうちに呼吸ができて、50メートルプールの端から端まで泳げたのでした。「わぁ、泳げた」と感動したものです。手足はてきとうに、とにかく呼吸が大切というのが日野泳法らしいのです。
 二日目、はりきって行きました。
 私の指導についた人は、日野泳法反対の人でした。「あんなみっともない泳ぎ方じゃなく、ちゃんと正しい泳ぎ方をしなくちゃダメだ。バタ足の仕方、肘の上げ方、私が教えるから」というのです。足の動き、手の動き、正しい方法を学ぽうとするのですが、緊張するので呼吸が全くできません。息を止めて泳ぐしかないのです。
 三日目、ちっとも成果が上がりません。
 ついに、四日目にその人は
 「あんた、運動というものをしたことがないの?こんな運動神経の悪い人は見たことない」とサジを投げたのです。屈辱。

 でも、私はプールが大好きなのです。裸になって、太陽の下で寝そべることが大好きなのです。
 水に入っていたら、いつか呼吸ができるようになるかもしれないと念じつつ、なるべくチャンスを利用して泳いていましたが、息を止めて25メートルを泳ぐので、苦しくて胸がはりさけそうです。
 外国のリゾートホテルには、プールがあり、プールサイドにはずらりと日光浴の椅子があり、宿泊客であろう人達は、本を読んだり、昼寝をしたりしています。
 私もそれが大好きです。ところが泳げないので、暑くてもプールにドボンと入ることができないのです。プールに、銭湯のようにおずおずと立って入る、首まで水に浸かるというのは、私の美意識が許しません。仕方なく、暑くて、水に入りたいところをガマンするか、陽陰で涼むかです。
 そんな日々、いつものように、絵を教えるために熊本県に行った時です。スポーツ刈りの頭、肩幅広く、のしのし歩く男達五、六人が、私が絵を教える教室の方へ向かって来ます。「ヤバイ、教育委員会のお偉い人たちが、私を弾圧するために来たんだ」と身がすくみました。
 そのイカツイ男たちは、体育教師で、誰でも泳げる方法「ドル平泳法」を考えた体育同志会の人たちでした。
 キミ子方式はドル平泳法と同じだと、楽しそうに絵を描いてくれました。そして、ドル平泳法の話をしてくれました。
 「ドル平泳法は呼吸法から始めます。二日もあれば誰でも泳げますよ」
 「私、実は泳げなくて・・・」と言ったら「いつか教えてあげましょう」と約束してくれたのです。それから二年後くらい、私は40歳になっていました。
 熊本県の小学校の夏休みのプールで、水泳教師五人と、学ぶ人私一人という豪華メンバーで、私にドル平泳法を教えてくれることになりました。そして、三時間で泳げるようになったのです。私の体が、魚になったように上下の動きが気持ちよくってたまらない。これで安心、私は泳げる人になったんだ。六ケ月後、埼玉で自信をもって飛び込んだプール。ところが、あれっ忘れてる-。
 あの時確かに泳げて、まわりの指導者から拍手をもらったのに、忘れてしまっていたのです。体を使う事は、体に覚えさせるまで、くり返しやらなけれぱダメなのだとわかりました。
 キミコ・プラン・ドウのスタッフの川合京子は、オリンピックを目指していた元水泳少女。公事和子は、元水泳インストラクターと、水泳指導者に囲まれている。それなのに

 一九九四年四月、私は54歳。ピギニングニュースに、水泳を習い始めたと書き、みんなに、水泳を始めたことを言いふらしました。なまけものの私を励ますのには、言いふらすのが一番だからです。
 泳いでいる時の呼吸が難関でした。息を止めて、形をととのえるのは、それっぽくできる、でもそれでは泳げることにならないと思っています。
 呼吸ができないので酸欠で頭痛がしたり「登校拒否になりそうです」と指導員にさけんだら、「呼吸なんて出来なくたっていいんじゃありませんか」と言われたのです。楽しく水とたわむれる方法がある、という意味かもしれないけれど、絵が描ける人が「絵なんて描けなくたっていいじゃない、絵の具と遊ぺぱいいのです」と言うセリフと同じだなと驚きました。
 それでも毎週水泳スクールに行くのと、川合京子の個人レッスンを受けることを続けました。話題は水泳のこと一色。
 呼吸法は、川合京子が教えてくれました。
 「水の中だからって緊張して、おおげさに呼吸しないこと。陸の上のように、気楽に無意識でできるようにすること」と教えてもらい、楽に息継ぎができるようになりました。
 長い間「息を止めて、がんばって、なるべく長い距離を進みましょう」とやってきたことが、気楽な呼吸をさまたげていたのです。
 こうしてクロールは泳げるようになりました。
 そして今、つくづく思います。教われば出来るということが。自習でなんとかならないかと思っていた日々がもったいない。
 出来ない泳ぎができるようになった。出来ないから、出来そうだとわかったあたりは興奮して、毎日のようにプールに通いつめました。
 出来るようになったら、さらに気持ちの良さを求めてプール通いが続くのでしょうか。
 絵を描くことも、出来なかった自分ができるようになる過程は、めくるめくような挑戦が心地好いが、できるようになったあと、何を楽しみにするのでしょう。

 スポーツは、誰かに勝つこと、新記録をたてることなのでしょうか?
 絵は展覧会に出品することなのか? 賞をもらうことなのか? レポートリーを増やすことなのか? 自分のこだわるテーマの発見に向かうのか? 教えられれば何でも出来ると自信を持って他の分野に挑戦する人もでてくるでしょう。
 私がもっとも望むことは、絵がかけないと思っている人を、絵が描けるようにすること。 「モヤシ」や「イカ」が描けるようになって「モヤシ」は卒業、「イカ」も卒業と考えてくださるといいなぁ。三月は卒業の時です。卒業する人、継続して描く人、それぞれの進路に分かれます。
 筆や絵の具があるのですから、再開も簡単です。今年限りの人も、落ちこぽれたと思わずに「〔色づくり〕〔モヤシ〕を卒業したのです」と町で会った時、気楽に声をかけて下さいね。私は視力が落ちて、特に遠くが見えなくなっています。人違いが怖くて、遠くの人と目線を合わせない癖がついてしまいました。
そして、いつでも気楽に、キミコ・プラン・ドウに遊びに来て下さい。
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