一九九五年も残りわずかの12月27日、スケッチツアーの人たちがペルーに向けて成田から出発する日だ。
私は三週間お世話になった下宿をさよならして、ツアーの人と合流するため、リマの高級ホテル〈ホテル シェトラン 〉へ向かった。
現地の旅行社、金城トラベルの代表の玉城さんが困ったような顔で
「実は一昨日の大雨で、マチュピチへのバス道路が崩れて通れなくなったんです。」
「エーッ? じゃあマチュピチへ行けないの?」。高級ホテルの静かなロビーで、思わず日本語で大声をあげた。
「マチュピチ」「ナスカの地上絵」その二つのホンモノをこの目で見てみたい。まわりの空間を体で感じたい。それが今回の旅の目玉だ。片目になっちゃうなんていやだ。
彼は表情を変えず、「今、ヘリコプターを飛ばすよう交渉しているんですが、前代未聞なんです。遺跡保護のためにヘリコプターは禁じられているんですよ。でも、緊急事態ですしね。」
「マチュピチ行きは30日だから、ガケ崩れから五日間、それまでに直らない?」
その時、玉城社長はニヤリとして「絶対に直らない。ダメです」とキッパリといった。
そうだ、ここは日本じゃないのだ。
「最悪の場合、歩いて登ることになるかもしれません。片道二時間くらいかなぁ。なるべくヘリコプターの交渉を進めます」
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翌日夜明けの空港で、長旅で疲れたとなつかしいツアーのみなさんの顔を見た時、ガケ崩れの話はしたくないと思った。
お迎えは現地ガイドの漢那さんと私。漢那さんと私は、その日の早朝にホテルで初対面だったのに、お互い発見できず、少し時間をロスした。
つまり、お互いが考えていた日本人像とあまりにも食い違っていたからだ。
「あなたが日本人だなんて。まるでインディオ」と漢那さん。「あなたが日本人の二世だなんて。まるで国籍不明の女優さん」と私。そして、お互いさまと大笑いしたのだった。このリマでの三週間は、中4日間、ミクマドルに行っただけだった。
リマ市の、どのレストランで「ウエルカムディナー」をするか、ずっと考えていた。そして「絶対にココ」と決めていた。その、海につきだしたレストランの名を出して、漢那さんに言ったら
「私もそこにしようと決めていたのよ。夕方七時に予約をいれてあるわ」
「もうちょっと早い方が、海に沈む真っ赤な夕焼けを見ながら夕食ができるわ」
「じゃあ、30分早くしてもらうよう電話をしてきます。あそこはムードがいいし、料理はおいしいし、海に陽が落ちるとカモメがレストランの明りを求めてきて、それが光を受けて白く光ってきれいなの。私くいしんぼうだから、レストラン探しにうるさいのよ」
その一言で、漢那さんが大好きになった。
ツアーのみなさんは、ホテルで目がまわりそうな豪華な朝食を食べた。私は昼食分も食べ、午前はホテルのプールで日光浴をして、午後は市内観光。私たちは一般の観光客ではなく、美術をやっているグループだから、文化遺産的価値のあるものを見たいと申し出て、カテドラルではなく、サンフランシスコ教会、修道院に変更した。
中庭のゼビリアンタイルを含め、バロックとアンダルシア風建物は、つまり南米を征服したスペインが浮かび上がってくる。宗教美術館や、カタコンベ(地下墓地)も、日本人の発想をうちくだかれる。
ガイドの漢那さんは、「リマは汚いところばかりでなく、高級住宅地や近代ビルがある」と、そこを見せたがる。私は、コロシアム建築を見せたいと対立した。
「日本にあるようなものを見てもしょうがないのよ」と言っても、観光バスは校がいの高級住宅地へ。高級住宅地の建物の大きさ、規模が。庭の広さ、豪華さが、日本と比べものにならない。
たしかに日本の住宅事情を考えれば驚きはするだろう。しかし、私はそのところに貧富の差を感じる。貧乏な人側に身をおいて、つらく見てしまっている。
午後三時、天野博物館へ。
天野博物館の美代子夫人をはじめガイドの美恵子さんは、一週間程前、キミ子方式で「色づくり」「髪の毛」「カット」を描いてくれた人たちだから、はりきって 案内してくれる。
「キミ子先生、来年もペルーに来て下さい。今度は北側の△△文化を・・・」と。
はじめて天野博物館を訪ねた時、天野美代子さん自ら案内して下さった。
「この壷はね、私が発見しました。主人がとてもほめてくれて・・・。いつも子どもを海岸で遊ばせ、私たち夫婦は発掘です。子どもの海水浴も、遺跡に会いそうな海岸しか行かないわけです。そう、この布は・・・」
と、まるで天野芳太郎氏と共に今も暮らしているように、生き生きと若く輝くのだった。
「奥さんが遺跡に興味がない人は不幸です。『こんなきたないゴミみたいなもの捨ててきて』と、みんな言われているらしいです。そんな嘆きもよく聞きます。」
天野美術館でペルーの文化と土器や織物の解説をうけ、実際にさわらせてもらい、スケッチもさせてもらった。
夕焼けを見ながらのディナーは、残念ながらその日、いつものように真っ赤にはならなかったが、白いカモメの中で豪華な夕食。
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二日目、早朝四時半に朝食をとり、六時半発のクスコ行きの飛行機にのる。朝しか飛行機は飛ばないし、お天気が悪いと飛行機が飛ばない。幸いその日は大丈夫だった。
クスコは高地なので高山病の注意を受ける。
「お酒は飲まない。風呂に入らない。走らない。はげしい運動もしない。興奮しない・・・」
これって、日本のくらしの全部逆じゅない? と、とっさに思った。
元山岳部の私を含め、ほとんどの人が何らかの高山病になった。私はボーッと夢の中にいるようで、思考力ゼロ。文字一つ、絵一枚描く気がしない。ただボーッとクサイワンの石組の要塞から、よく映画に出てくる赤い屋根瓦の密集するクスコの町を眺める。
クスコに来て、インディオの人たちの方が多いのではないかと思う程で、逆にリマは大都会だったんだとわかった。
ボーイッシュなガイドのやよいさんは、クスコにほれた恋人を追って東京から来て、今は夫婦でガイドをしている。その美しい日本語には惚れぼれしてしまう。
体調をくずしホテルで寝ていたいという仲間に「マチュピチはクスコより低地だから、まるでウソのように高山病が直るから、全員行きましょう。クスコからのヘリコプター代は米100ドル、列車でプエンテ・ルイナス駅まで行き、そこからヘリコプターに乗ると50米ドル」と提案すると、三人がヘリコプター組になり、あと23名は、列車・徒歩組になった。
私はヘリコプター組の三人を予想していた。ところが、私の予想は大きくはずれ、何と最も強そうな 3人がヘリコプター組だった。
根岸さん、中根さん(男性40代50代・社長業)そして、唯一の女性は漆原さん。それを知った時「なんで? 一番元気そうな人が」と言ったら
「ヘリコプターで、上空からマチピュチを見てみたかったのよ」
我ら歩き組は、朝六時にクスコの谷をスイッチバックの汽車で、ゆっくりいったりきたりして上り、各家の屋根に、焼物の犬がのっかっているのを発見した。
しばらく行くと汽車は草原にでた。その時、汽車に「コンドルが飛んでいく」の曲がテープで 流れたのだ。思わず「ワー!!」と、その風景と曲があまりにも合って拍手してしまった。その後テープを売りに来て、おもわず買ってしまったのだった。
その後、車内でクスコの名所旧跡がビデオで流れた。
「あのビデオも後で売りに来るのかしら」と、話していたら、やはりそうだった。
汽車が駅で止まるなり、汽車のまわりに物売りが殺到する。誰かが窓から買った「とおもろこしとカッテージチーズ」。この組み合わせが面白いが、いつもそうなのだ。
この汽車【アウトバゴン】は、観光客用の全席指定車で三両、マチュピチのあるところの駅まで。現地の列車はもっと山奥まで入る。
一回だけ、現地の人が利用する列車と行き交ったことがある。列車の中は人人人、そしてデッキの外に人がぶらさがっている。
あっちの汽車にのって旅したいなと思った。
このアウトバゴンではサンドイッチの朝食がでた。紙コップにマテ茶。その後ビニールのトレーを回収に来た。何度も使うのだという。
さて、プエンテ ・ルイナス駅は十時着。四時間汽車乗っていたことになる。駅から山頂に向かってちょっとだけバスにのり、歩かねばならない。インディオの子ども達が「手伝いましょうか?」と声をかけて来る。「いくら」「5ドル」。
体の大きい我々が、小学校一年生か幼児のような子どもに「荷物をもちましょうか」と言われても、申し訳ないような気がして、ことわってしまう。
でも、ガケ崩れのおかげで、彼らは仕事がふえてよかったのかもしれない。
その登頂まで、一時間半はきつかったが、ヘトヘトで登頂して、マチュピチを眺めた時の感動は
「来てよかった!!」
体ごと対面したという感じだった。〈一九一一年にマチュピチを発見したビンガムの心境に、ちょっと近づいたかな?〉
そして広い。町なのだから広いのだ。段々畑、コンドルの神殿、牢獄、水汲み場、陵墓、太陽の神殿、見張り小屋、王女の宮殿、神聖な広場、日時計も。その町の跡を歩きながら、インカ帝国はどこにいっちゃったの?
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中根さん、根岸さんは、帰り汽車組に。鈴木さん、中川さんとバトンタッチ。両方体験できた方が得だったかもしれない。
帰りの汽車は、谷とは反対側の座席にすわったら、まっ白な山が夕焼けにそまり、山が見える度に、カメラを持った人が右へ左へと大さわぎ。
帰りも車内でサンドイッチとマテ茶を期待したが、ぬるいオレンジジュースだけでがっかり。
しかし、クスコの町の燈が見える頃、汽車のライトを消し、キャンディーを一個づつ配ってくれた。
夜は市場で、ガイドさんに頼んで果物を買ってもらった。元気な人は私の部屋で食べることにした。パパイヤ、マンゴーのおいしかったこと。中根さんのおごりだった。ごちそーさま。
元気なはずの漆原さんが、寝ようとする頃に来た。何と夕食に行っていたとのこと。夕食が食べられるほど元気なのだ。
翌日は日曜日なので、ピザックの日曜市にぶつかった。
インディオの民族衣装を着た女の子三人をモデルにスケッチ、買い物。誰かがコカの葉をいっぱい買った。買い物嫌いの私が何かくるったか、大きなお皿を買ってしまった。その後、運ぶのが大変で旅のやっかいものになる。
12月31日はホテルで九時から、大晦日特別ディナーショーに参加することにした。
ショーはソロあり、トリオあり、そのトリオの一人はマチュピチのガイドさんだと漆原さん。他人のそら似じゃないのという私たちの助言をふりきって、幕間に声をかけた。するとやはりガイドさんだった。ガイドが本職で歌はアルバイトとのこと、でも記念にテープを買って、サインしてもらった。
一九九六年一月一日は、ナスカの地上絵をヘリコプターで遊覧だ。
地上絵は大きいはずだが、大地はとてつもなく広く、絵が小さく見える。これだけは本物と 写真と イメージが違う。みんな疲れているでしょうから と、考古学博物館を省略しようとしたガイドさんに、ぜひとお願いして、バスを仕立ててもらった。私が一人で探しながらいくと一日仕事になっただろうと思うくらいヘンピなところにある。
一月二日はリマに戻り、私の好きなラクアエル・ラルフ・エトラ博物館でスケッチ。写真撮影禁止の美術館なのに、描かせてもらった。私は庭で昼寝。午後は黄金美術館へ。私の下宿の方で、町の中心から離れている。
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今年のツアーは、福岡、広島、大阪、京都、愛知、宇都宮、群馬と日本中から、男性5名、女性21名の合計26名。
夕食付きにしなくて本当によかった。もし夕食付きにしていたら、ほとんどの人が食べられなかったでしょう。
今回のスケッチツアーを誰かが
「スケッチツアーじゃなくて、トレッキングツアーでは?」と言ったのには、みんなで大笑い。
ホテルをなるべく変えないで、ホテルをベースキャンプに動くと疲れないこと。これも、今回実行できたことだ。
自分達の大切なお金を使った旅なので、この日数と金額の中で、いかに有効に気持ちよく他国の文化を吸収できるかが観光ツアーの勝負だ。
私が一人で旅すると一日に一カ 所探しながらいくのがやっとなのに、ツアーは三倍は効果的に動く。逆にだから、疲れるので5日間位が限度ではないかと思う。
来年はインドに行きます。
12月19日前出発と、25日すぎ 出発と、二つのグループを作れば、仕事をしていない人も勤めのある人も両方行けるでしょう? さあ、行きましょう。
あ、行きましょう。
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