エッセイ目次
 

No83
1996年3月4日発行


いちごのハンカチ

 私の手元に、ふた粒のいちごの絵を描いたハンカチがある。
 つい先日、岐阜県に仕事に行った時に、柴崎章子さんから手渡された。
 「あっ、岡崎菜穂子さんの絵だ」と、小さくつぶやき、思わず胸に抱きしめてしまった。
 岡崎さんがガンで亡くなって、もう何年になるのだろう。ハンカチのいちごの絵には、一九八五年六月六日となっているから、それ相当の月日が経っている。
 岡崎さんは、当時、東京・神田にあった仮説会館で、私が絵を教えていた時の生徒さんであった。
 仮説会館のフロア続きに仮説社があった。私のはじめての本『絵のかけない子は私の教師』は、そこから出版された。
 そのはじめての出版の本は一九八二年だから、彼女との出会いはその前後だと思う。
 一九八○年、私が40才の時に、過去のなにもかもを捨てて、人生をやり直そうと、ネコ二匹、子ども二人をトヨタ・カローラに乗せて、15年住み慣れた家を出た。
 さて、どうやって食べていこうかと考えるよりも「今日から自由だ。どこに住むことも、何をすることも」と、限りない開放でいっぱいになったことを、はっきり覚えている。
 少し落ち着くと、お金のことが不安になる。定収入がないのに、定支出だけは確実にある。家賃、ガソリン代、子どもの給食費、などなど。
 そんな時、助けになったのは、仮説会館で絵を教える講座を開いてくれたことだった。
 実は、私の生活を支えようと、仮説実験授業研究会の人たちが呼びかけて下さったのだ。
 キミ子方式(当時はまだ名前をはっきりと決めていなかった)を考えついたのは、それにこだわっていられたのは、貧乏でヒマがたくさんあったからだ。けれど、さらに貧乏が続くと、どんなにすばらしい考え方を発見しても、目の前の生活費稼ぎに追われて、その考えを守り続けるのは難しい。
 「キミ子方式を守り続けてもらうには、キミ子さんの生活費の足しになるよう協力しよう」と考えて下さったそうだ。
 そうして、仮説会館で、月に2回
 夜の絵の講座が開かれた。ほどなくして、日曜講座も開かれた。

 その日曜講座に、岡崎菜穂子さん親子が参加された。菜穂子さんは30代の小学校の先生で、息子さんは小学校一年生か二年生。
 自分のプライドに見合う絵が描けなくて、イライラして、大声で「イヤダヨ!」「デキナイヨ!」と叫んだり、すねて筆を投げつけたりと、激しかった。
 もし、キミ子方式の絵がなかったら、情緒不安児、多動児、問題児としてその方面の学校に入れられていたかもしれない位、日曜講座の集団の中ではめだっていた。
 その彼も、6、7回絵を描いていくうちに、まるで、ツキモノが落ちたようになった。
 プライドが高く、エネルギッシュな息子さんは、絵が描けることによって自信がつき、思慮深く、落ち着いた小学生になっていった。
 岡崎さんも離婚して、息子と二人の母子家庭ということだった。私と同じ生き方をしている彼女に、いっそう親近感をもった。
 時々、こういう生徒にあった時は、キミ子方式を考えてホントによかったと思える。確実に人の役にたっている。この人、こんなにいい顔になったと喜べる。
 その頃「人生は短し、しかし芸術は長し」という話をしていて、キミ子方式の絵を描いて楽しんでいた主婦の方が亡くなって、そのご主人が、奥さんの絵をふろしきの模様にしたそのふろしきを持ち歩いていた。そのふろしきを示しながら
 「ねっみなさん。『今日描いた絵をふろしきにして』とか、遺言を書いておくといいですよ」と、半分冗談で、半分本気で言っていた。
 岡崎さんは講座に、3年以上は通ってきていたような気がする。最後の方は息子さんと共にではなく、岡崎さん一人で。
 「息子は元気でやっています」の言葉に、きっとそうに違いない。もう何をやっても、真正面から立ち向かっていける少年になっていると確信がもてた。

 その岡崎さんが、日曜講座にみえないなぁと気にしている時、「入院しました。手術しました」「どの絵をふろしきにしようかと、ベットの中で考えています」と、時々ハガキをもらっていた。
 そして、仮説社の竹内さんからある日「岡崎さんが亡くなった。ガンだった」という電話があった。
 「息をひきとるまで、ベットの上で『たのしい授業』を読んで下さっていたと家族の方から聞き、うれしく思っています」と竹内さんは言っていた。
 その瞬間、ずーっと前の一人の生徒のことを思い出していた。
 外交官婦人で世界中を歩いた人。
 夫亡きあと、一人娘はアメリカにいて、彼女は一人暮らしである。習いごとをたくさんしたけど、今一つピンとこなかったけど、この絵の描き方はすばらしいとキミ子方式にのめり込こんだ。
 キミ子方式のすばらしさに疑問をなげかける長年の友人とも絶交したり、絵を習いたい一心で、朝に昼食の用意をして、文字どおり、朝から晩まで絵を描き続けていた。
 彼女は、もやしの絵を描くのに、よりよいモデルを求めて、もやしを手作りし、それ絵に描く徹底ぶりだ。
 その彼女もガンで入院、手術、入院となった時、自分の描いたハガキ大のいちごの絵だけを病室に飾って、亡くなったという。
 その話を聞いて、私の人生の最後に立ち合ってほしい絵は、私の場合どの絵だろうと考えたものだ。
 岡崎さんは『たのしい授業』という雑誌だった。
 大好きなものの前で眠りたい。私の最大の贅沢は、ここちよい風と太陽の下での昼寝。好きな絵の前での昼寝。だから美術館にいくと睡魔がおそう。
 音楽会でうたた寝、大好きな人の前でうたた寝。
 目が覚めた時に目の前に入るものが最高のものであってほしい。それが私の至福の時。
 58才で亡くなった母の年齢まで、あと3年。どの絵を見ながら最後の時を過ごすのか。
 ニュージーランドのフティアンガという海辺の町で、日がな一日、海の色と空、とりわけ雲の変化を見ていたら、ふと、「この風景を見ながら、寝たきり老人になっても幸せだな。できれば、ここで死ねたらどんなに幸せだろう」と思った。
 翌朝、訪ねてくれた友人に
 「ね、私の死に場所を見つけたよ」といったら、その友人は
 「じゃあ、私が朝、死体を発見することになるのかなー」と言い返されて、お互い笑った。
 その時は、部屋にかける絵よりも、友人よりも、窓から見える風景をとっさに選んでしまっていたのだ。

 岐阜県に仕事に行った時、ネギの絵を描き終えて、次の講座の相談をしている時に
 「姉が東京でキミ子方式を習って・・・」という話から、岡崎さんの妹であることを知った。
 「姉が『自分の死後、二枚の絵のどちらかをふろしきかハンカチにするように』と、遺言があって、私たち、いちごの絵をハンカチにしたんです。」
 えーっ、岡崎さん、私との約束を実行されたのだ。
 「ぜひ、そのハンカチをいただきたいわ」とお願いして、お別れしたのだった。
 岡崎さんの息子さんは、今や高校3年生で、大学は母と住んだ東京の大学を希望しているそうだ。
 今、手元に岡崎さんの、ふた粒のいちごの絵入りハンカチがある。
 この絵を描いた日から、11年になろうとしているのに、今、私の机の上に、生々しく、その絵は生きている。岡崎さんの笑顔の思い出と共に。

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