エッセイ目次
 

No85
1996年5月4日発行


父・北海道・全国大会

 5月4日は、私の誕生日。そして、父が62歳で亡くなった日でもある。
 父は畑を耕し、小屋を作り、人力シーソーゲームの精米器も手作りだった。
 父はお酒ものまず、ヘビースモーカーだった。給料日がくると、一ヵ月分のタバコ代を、まず一番に確保した。
 電気のない北海道の夜は、まっくらだ。トイレに行こうと、父のいる部屋を通ると、暗闇の中に、ポツリと赤い火が見える。父が起きて吸っているタバコの灯だ。
 夜明けと共に父は起き、畑仕事に出ていく。七時半に家に帰り、玄関に腰かけながら朝食をとり、八時に会社に行った。始業時間30分前に会社に着くのを終生続けた。鉄道会社の保線区が仕事である。
 夕方、会社から帰ると、陽が暮れるまで畑仕事をし、暗くなると家に帰る。夕食の後半は半分眠っているようだ。夕食後のタバコを一服しながら、座ったまま眠っていた。
 日曜日や、会社から帰ってからの畑仕事は、必ず子ども達を畑仕事にかり出した。裏切ると、なぐられた。
 夏の夕暮れは、蚊の宝庫である。かゆくて、不愉快。そんな時、父は平然と
 「働くものには、蚊がつかない」と言った。そして、父は蚊に刺されていないようだった。
 蚊も止まれないほど動きまわるのかと、父の働きを恐怖をもって見つめた。
 一番つらい手伝いは、肥えおけを父と二人でかつがされることだった。父の背丈に近い子が順繰りに、父の相棒になった。
 小学校の頃の思い出。
 足元下には濁流の川が見える。私と父は、トンネルの上の山から、急な斜面を、肥えおけをかついで降りる。私が先頭、父が後。
 「足もとだけを見ろ。一歩一歩、大丈夫」
 父の静かな声だけがたよりだ。
 今でも、その場面を夢に見る。川の音、灰色の空、空気の色、足元のぬかるみ。
 北海道は一年の半分近くは雪の中。その間は畑仕事はない。そのかわり、父はせっせと除雪作業をする。夜明けから、夕暮れまで。
 朝、目がさめて、はじめて聞く音は、父の除雪作業の音だ。その音で、外の気温がわかる。雪の量がわかる、雪の質がわかる。その音を聞いてから、また、眠りにつくのが幸せだった。
 除雪作業は、なぜか父一人の仕事だった。
 「父は働きものだったわね。でも一緒に働かされてまいったね」が、兄弟が集まった時の会話だ。
 「そして、父は文字が読めず、書けない人だった」と話にいきつく。
 でも、私が大学生の頃、一度だけ父から手紙をもらった。封筒のあて名は、女文字だった。
 たぶん、郵便局の人に書いてもらったのだろう。毎月送られてくる生活費の中の紙切れに
 「カラダニキオツケテ、ベンキョウセヨ、チチ」という父の書いた電報文があった。
 「カタカナ文字は書けたよ」と兄弟にそのことを話しても信じてくれない。証拠品がないせいだ。
 「でも、電報配達していたこともあったのだから、カタカナは読めたんでしょう?」と兄弟にくいさがるが、反応はよくない。
 お正月が近ずくと、父は近所の文字の上手な人に年賀状を書いてもらった。
 知人、友人から来る年賀状を「字がうまい」とか「これは下手だ」と、必ず批判する。
 〈字がかけないくせに、ケチばかりつけて#〉と、私はそんな父を軽蔑した。
 母は字が読めたし、祖父は畑仕事ぎらいで新聞好きだったから、くらしに不便はなかったのだ。

 一九八五年、辺見じゅんさんの、朝日カルチャー自分史講座をうけた。そして『私達の戦争体験』として、深夜業書から出版した。
 その時、丁度、北海道から兄が上京してきたので、新宿の中華料理屋に兄弟4人が集まった。
 私は「ごめんね。みなさんのこと、ちょっと書きましたけど許してね」と、その本を手渡した。
 いつもなら、父にコキ使われた話題で盛り上がるのに、戦争体験の話になった。
 「そういえば、隣の炭鉱町のタコ部屋から逃げてきた朝鮮の人をかくまっていたね。ぼくはその人にゴハンを運ぶ係だったなぁ。二人いたのは覚えているよ」と、私のすぐ上の兄。
 「私、小学校5年生だったけど、父の命令で学校を休ませられて、その人を汽車のトイレにかくまって、私はトイレの前に立って『母さんがおなかこわして、トイレに入っているから』と嘘ついて、F町のおばのリンゴ園までつれていったわ」と姉。
 戦争中、私たちが住んでいたのは、北海道のまん中よりちょっと左、両竜平野の左側の山に、二つの炭鉱町があった。その二つの炭鉱町の間に、駅長と保線区(私の父)の二軒だけが住んでいる社宅だった。
 二つの炭鉱町のある山々をぬけるのは、鉄道とそれにそった道路一本だけだった。「あの戦争中に、そんな大胆なことをして・・・」と私は絶句する。
 「父は字が読めない、書けない、バカだっていうふりをして、偏平足で兵隊検査は受からず、人は会うと『お国のために役が立たずに申し訳ありません』と、いつもあやまっていた。
 でも、本当は、スゴク利口な人だったんじゃないの? すごーいヒューマニストだったんじゃないの? 百姓仕事が好きで、食べ物をいっぱい貯えていたから、それができたのだけど・・・」と話しは広がる。
 父は、いつも「世間が・・・」を主語にする人だった。
 私の親友が結核になったと知ったら、肺病がうつるからその人と遊ぶなと言った。そんな父をエゴイストと軽蔑していた。
 母が信念の人だから、私は自分のやりたいことをやれた、と思っていた。
 忘れられない場面がある。
 ある夜、隣の部屋から父のオロオロ声が聞こえた。「××さんから聞いた話だけど、藤一郎(長男)がアカになったらしい。困ったものだ。」
 その時、母はきっぱりと言った。
 「彼は私の息子です。私は息子の考えを、息子を信じます。誰が何といおうと」
 私はその時、父を俗人、母を賢人と確信したのだった。

 それなのに、45歳にして父への評価がガラリと変わったのだ。
 そして、父の生きた北海道が、年々、恋しくなる。

 今年、キミ子方式全国大会は北海道の小樽で、8月9日(金)、10日(土)11日(日)に開催します。
 主催者の加川さんは「ついに北海道でやってくれることになったか。うれしいね」と日本海を見ながら、しみじみ言った。
 日本の果てで、反骨の魂を燃やした父に、兄に共通する加川さん。
 そんな、私の故郷北海道に、ぜひ行きましょう。日本海に沈む夕陽を、小樽の町を描きましょう。そして、キミ子方式を語り合いましょう。
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