エッセイ目次
 

No90
1996年10月4日発行


雑草賛歌

 遊佐町は、山形県酒田市から車で30分程北へ行ったところにある。
 庄内空港に降り立ったら、きまって探すのが鳥海山だ。すそのをゆったり大きく広げた雄大な山。
 はじめて遊佐町へ行った時、どの人の挨拶言葉も
 「今日は鳥海山が、あいにく見えなくて・・・」とか、「鳥海山の上に紅葉がやってきて」とか、誰もかれもが、鳥海山の話をする。
「今日は雨で・・・」とか、「寒くなって・・」と、お天気の挨拶をするのがふつうなのに、そこがまったく違うのだ。
 少なくとも、年に一回、5年分は絵を教えにいっていると思う。その間に、鳥海山にも登り、ふもとに紅葉を見に行き、とにかく、遊佐町に行ったからには、鳥海山への挨拶が習慣になった。

 今年も酒田駅近くのビジネスホテルで目覚めて、窓のかなたに広がる鳥海山を見たら、
 「やあ、やあ、また、今年もやってまいりました。今日はすっきり、すそ野まで見えて、しあわせです」と深々と頭を下げたくなった。
 青い空の下、頂上スッキリとあおっぽい色の鳥海山。ふもとは白くかすんで見える。そして、その手前は黄金色に輝く稲。今日は稲刈りには最高の天気だという。
 車で30分ほどでついた遊佐公民館のまん前は、稲川小学校。そこは、昔なつかしい木造校舎で、60年前のものだという。
 小学校の校庭と、公民館の庭は続いていて、何本かの桜の木が二つの庭のしきりのようだ。
 そこにある雑草群が、私を感激させる。
 キミ子方式のテーマにふさわしい、秋の草花が、それはそれはみごとに咲いている。
 「あかまんま」「ネコジャラシ」「おおばこ」「クローバー」「オニタビラコ」「メヒシバ」「スズメノヤリ」「ミヤコワスレ」「カタバミ」その他が、ざっくりある。
 「さあ、絵を描いて」とそれぞれが私を呼んでいるようだ。どれも、東京で見るのよりも美しい。色がはっきりしている、生き生きしている。
 昨年も、草花をテーマに「はがき絵」をやったのに、まだまだ、あれもこれも描きたいから、又、来年も「はがき絵」にしようと、言ってしまった。

 そして、今年。
 その草花群をめざして、ザワザワと草を摘むために分け入ると、バタバタとイナゴの大群が飛び逃げる。すごい音だ。大粒の雨の音のようだ。
 まるで、海や川に足をいれた瞬間に、小魚がバッと逃げ散る時のようだ。
 そっと、足をふみ入れたつもりでも、バタバタと、すごい量のイナゴが飛び立つ。
 大地は人間だけのものじゃない、たくさんの動物や植物と一緒に暮らしているんだと思い知らされる。
 小さい頃、野山で草花をつんだり、野いちごをとったり、キノコを探したり、秋は野ブドウを採ったり、友だちのいない私にとって、森は自由になれる世界。
 山が遊び場だった。食べられるくだものが見つかると最高だけど、きれいな色の葉、めずらしい形、それらと出会うために、いつもたった一人で、山へ遊びにいった。草花や、木や、キノコが友だちだった。
 そして、あらゆるものにー落ち葉にも、雑草にも、小さな虫けらにもー大切な命があることを知った。
 だから、花を折る時も「ごめんね。」とか、ぶどうを摘む時でも「いただきます」とか、挨拶をしたものだった。
 草花は、誰でも絵が描けるキミ子方式にとって大事なテーマだ。
 これも、きっかけは、産休補助教員をしている時、何とか中学生を気持ちよくさせたくて「散歩に行こう」と多摩川の土手につれ出し、あれこれ、昔話をしながら草花摘みをしているうちに、この雑草を絵のテーマにしてはどうかと気づいたのだ。
 おかげで、大人になっても、子ども時代のように、雑草の広場へ、幸せいっぱいで分け入るよろこびを味わえる。
  はがき絵のモデル探しという、誰にでも説明できる目標があるけれど、実は私はモデル摘みそのものが、無上の喜びなのだ。
 つい夢中になり、時間を忘れる。

 この遊佐町での草花をテーマにした「はがき絵づくり」。
 小学生も大人も、ほんとうにステキな絵が描け、あかまんまも、オオバコも、ミヤコワスレも、コスモスも、さらにいとおしく思える。私の生徒さんが、ステキな絵を描いてくれると、その絵のモデルがますます好きになる。
 もやしも、イカも、空も、日に日に好きになる。愛しくなる。
 描けば描くほど、教えれば教えるほど、そのものが好きになる。描いた人の喜びが、そのものの命に加わり、私をいっそう引き付けるのだ。
 だから、「もやしを一回描いたからもういいです、他のものを描きたいです」というセリフに出会うと、どっと悲しくなる。
 きっとその方、もやしの絵をうまく描けなくて、もやしに惚れることができなかったのではないか?と不安になる。
 私は日に日に、もやしの素晴しさに感激し、身近な雑草をほれぼれ見渡せるのに。
 「鳥海山、そして黄金の稲、限りない草花。最高の風景を一年に一回見られて、心か洗われたようになるわ、ありがとう」と言う私に、私を呼んでくれた公民館の自称クマさんは、
 「なに、ただ草むしりしない、ほっぽり出した庭なのに、キミ子さんが喜んでくれるから、都合がいい」ということを、山形弁で言うのだった。
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