エッセイ目次
 

No91
1996年11月4日発行


宿題 あなたが学んだことを誰かに伝える

 9月30日から、高円寺にある女子美術短期大学の先生になった。週一回、美術科教育法を教えるのである。
 私が 、初めて女子美の門をくぐったのは、高校3年の時だ。夏期講習に来たのである。
 私の通っていた高等学校は、北海道の片田舎、小さな学校である。校庭のまわりの校舎もポプラの木にかこまれた木造校舎だ。
 夏休み前に「高3の夏休みはどうすごすの?」と、担任の先生から聞かれた。
 「東京に行って、女子美の夏期講習を受けます」と言った時の、先生のびっくりした顔に、私もびっくりする。
 当時、私の住む町から東京へは、約2日かかった。本州(あぁ、なつかしい)へ行くことを〈内地に行く〉と言った。
 北海道と本州を結ぶ船、青函連絡船は、4時間30分かかった。
 私の兄は国鉄職員だったので、当時、家族パスというのがあって、一回3人までは無料のパス券がもらえた。
 わが家にとっては、東京は遠いところではなく、兄も姉も叔父 もいて、私も何度か行き来していた。
 女子美の講習会で、自分のデッサン力は、まあ、まあかな。全国レベルってたいしたことないなぁと思った。
 油絵も描いたはずなのに、全然覚えていない。油絵の具を、姉が買ってくれたワイシャツにべっとりつけてしまい、いそいで水道で流したら、きれいにとれたので、ホッと一安心したのを覚えている。
 その時、巣鴨に住む、制服を着た、誠実そうな女の子と友だちになり、彼女の家に遊びに行った。
 「せめて、短大くらい出ていないと、いいところのお嫁にいけませんからね」というお母さんの話を、遠い出来事のように聞いた。
 〈お嫁に行く〉という単語は、私の辞書にはなかった。だから、変わっている家庭があるもんだと思った。
 その年、母に、私大受験を反対され、受験料の二千円がもらえず、女子美を受けられなかった。母の言い分は「国立大学以外は高いからダメ」だった。
 当時の国立大学は、高校の授業料より安いのだった。
 私は、生まれて一度も彫刻をやったことがないのに、芸大の彫刻科を受験した。倍率が低かったからだ。学科試験に通り、デッサンの実技も通り、最後の実技の彫刻で落ちた。彫刻ができるようになれば芸大に入れると確信した。そこで、さっそく北海道に戻り、学資をためるべくアルバイトをした。
 浪人中に旅に出た。当時、いつもスケッチブックを片時もはなさず、スケッチしまくっていた。
 海を見たくて汽車に乗ったのだ。汽車の中でスケッチしていたら、美しい女性が話しかけてきた。女子美の学生だと言う。その方に 「女子美にいらっしゃい」と上品な言葉で誘ってくれた。
 一年浪人した翌年、合格するつもりでいた芸大を学科試験で落ちた。自分で稼いだ金があったので、女子美のデザイン科も受けた。そして落ちた。 
 その受験会場で、北海道の汽車の中で出会った人に声をかけられた。彼女は受験のアルバイトをしていたのだ。
 芸大と、すべり止めの女子美もおちた。そこで最後に残っていた武蔵野美術大学の補欠試験の申し込みをするために武蔵美に行くと、その試験は作文と面接だけ。面接の時には〈自分の作品を持ってくるように〉と描いてあった。
 芸大に絶対合格すると思っていたので、武蔵美の補欠試験のことなど考えていない。自分の作品など持ってきてはいなかった。
 〈困った〉
 申し込みを済ませた帰り道に出会った武蔵美の学生と友だちになった。その油絵科の学生の作品を借りて、試験に挑んだ。
 面接の時、「君の油絵、なかなかいいね。彫刻科じゃなくて、油絵科にしたらどう?」と言われた。
 武蔵美の思い出は、在学中フランス語をカンニングし見つかった。それ以来、フランス語にコンプレックスがしみついた。
 結局、2年浪人して芸大に入ったが、私にとって、女子美は仰ぎ見る、高い塀に変わりなかった。

 あれから、37年。ひょんなことから女子美に勤めることになった。
 実質2年半働き、自宅待機約5年勤めた、M芸術短期大学の経験から、30名くらいの学生で、受け持ちの講義も1コマだろうと思って引き受けたら、受け持ち3コマ、1クラスは84名という大所帯だ。でも、大勢の若者に出会うのはたのしい。
 一日目の午後、私が教室に入ったら、缶ジュースを飲んでいた学生が、いそいでとりつくろうと困っていた。
 「あら、どうしたの。どうぞ飲んで下さい」と私。
 「えっ、いいんですか?」
 「だって、あなたは喉が乾いているのでしょう? 私は絵の講義を聞いてほしい。あなたが喉の乾きをとめて、いい気持ちになった方が、私の話に集中できるでしょう?」
 「そんな先生いないんですよ。なんだか楽しくなりそう」
 あとで知ったのだが、その彼女は私の授業を取っている生徒ではなかった。たまたま来ていて面白かったのでと、単位にならないのに受講している。
 女の子が80名もいたら、おしゃべりに華をさかせるところだ。ましてや月曜日の朝の授業なので、土日の出来事を知らせたいに違いない。
 だから、おしゃべりしている人には
 「はい、じゃあ、あなたたちのために、3分間待ってあげる。3分以内に伝えたいことを伝えて。3分後に、私の話に集中してね」と決めたら、みんな約束通りちゃんと耳をかたむけてくれた。

 2週目は三原色を使って「色づくり」をやることにした。
 ご多分にもれず、彼女たちも 絵を描く道具をもってこない。紙パレットをゆずってもらったり、筆を貸してもらったりして、全員に道具が行き渡るのに30分はかかってしまった。90分しかない授業なのに。
 「こんなふうに、中学生も道具を全員持ってくることは絶対にありません。そんな時は貸し合いましょうね」。私の授業を受ける生徒は、中学の美術の教員免状をもらうための必須科目だ。
 作品が出来、全員の作品を教室に展示した。
「わあ、楽しいね。こんなに各々個性豊かなのね」と喜んでくれる。
 美術教育法だから、教えないと意味がない。宿題を出すことにした。
「誰かに教えること。ご両親に授業料を出してもらっているんだから、感謝をこめて教えてあげて。一週間、誰にも会わず孤独に生きている人、教える対象のいない人は相談にのります。手をあげて?」
「ハーイ、下宿なので」と、一人の女の子が手を上げた。
「隣の下宿人に教えたら?」
「だめです。だって、おばさんばっかりだもの」
「その、おばさんに教えなさい」。
 学生たち、教える対象は、小中学生と決めていたようで〈弟や妹がいないからダメです〉というのだ。
 「人間だったら、誰でもいい。学校に勤めている事務員さんや、用務員さん、学校の先生、私の授業を受けてない学生なら、誰でも生徒になるのだから」
 かくして、一週間後、それぞれのエピソードを抱えて、学校にやってきた。
 「両親がよろこんだ」「弟に感謝された」「恋人がめんどうくさがったので頭にきた」「お母さんが、もっとやらせてとねばった」「私よりも、たくさんの色を作ったので、ショックだった」「教えることは学ぶことだった」などなど。
 次の授業である「もやし」の時は、「家に帰って、お父さんに教えることを考えると、お父さんの喜ぶ顔が目に浮かぶ」と、みんなぐんぐん積極的になる。
 自分が習った事を他人に教えようという目標があると、人はこんなにも積極的になるのか。
 キミ子方式を学んでいる人に提案。キミ子方式の良さは、他人に伝えられること。ぜひ、学んだことを、学んだ通りに伝えてほしい。伝えることで、自分の不確かさもわかり、伝わった時のよろこびは、また格別である。

 「文化祭なので、実家に帰ります。その時に両親に教えてきます」と、うれしそうに別れた学生さんに会うのが、とてもたのしみだ。

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