エッセイ目次
 

No94
1997年2月4日発行


ひょんなことから インドで展示会を

 その日は、インドでも一九九六年12月15日、日曜日だった。
 私のガイドを引き受けてくれたインド人は、クリスチャンなので教会に行かねばならない。
 「あなたは、美術館や動物園のある公園で一日過ごしたら?」
 公園の前でオートリキシャ(オート三輪車)を降り、美術館の方へ歩いていくと、何やら人だかりがしている。あれっ、画用紙を配っているようだ。何だ、写生会ではないか。
 11月3日に東京の上野公園で、スケッチの写生大会を終えたばかりの私は、インドの南の果ての町〈トリバントラム〉の公園でも同じようなことをやっているので、思わずニヤリとしてしまった。 
 ベンチに座っている若者が、裏に判を押した八つ切大の画用紙を大人に渡す。渡された人は、画用紙の裏に自分の名前と住所を書き入れる。私は若者ににじりより「写生会ですか?」と聞き、自己紹介をして「私にも記念にその画用紙を一枚下さい」ともらう。大人と子どもが入り乱れていたが、どうやら子ども〈幼児から青年まで〉の写生大会らしい。そして親は付き添いのようだ。 
 画用紙を配っている若者に「昨日『THE HINDU』という新聞に、カラーで絵画コンクールの優秀作品が出ていたわね」と、私がちょうど持っていた新聞を見せたら「新聞に出ていた12点の作品の中で、3名はウチの生徒です。帰りに寄って下さい。あのギャラリー二階が画塾です。今回の絵画コンクールはその画塾の主催です。生徒は三〇〇名」と、自信たっぷりに話してくれた。
 広い公園には、ネヒャエル博物館、自然史館、歴史館など、5つの建物があり、八角形の屋根と柱だけがある記念堂のような建物があって、その建物は階段で十段程上がったところにコンクリートの地面があり、そこに直接画用紙をおき、絵画コンクールの作品を描くらしい。
 合計一二〇名くらいが集まって、地べたに座って、まずは、芸術家風の先生の説明を聞く。その時、付き添いの大人たちは建物から降り、子ども達を不安そうに見上げる。
 10才以上、四,五人、15才以上、三名で、あとは10才以下の子どもたちのように見える。 
 10時15分から始まって12時まで。各々イメージで描く。つまり自由画である。きっと先生は「人まねではなく、あなたのイメージを大切に、創造性を発揮して下さい」というようなことを言っているのだろう。
 画用紙の端に、1センチくらいの枠の線をエンピツでひいている子がいる。〈コンクール慣れしているなぁ。〉
 水彩組と色エンピツ組がいる。12色や6色(赤,青,黄色,白,緑,黒)の絵の具で、うまく色を混ぜている。パレットの形が様々。それにもまして水入れがプリンの入れ物のように小さいのに、その中で筆を洗いながら、きれいな色を出している。
 リンカク線を描いてから色をぬる子や、直接、絵の具で描く子などさまざま。不安がっている子、さっさと描く子いろいろだったけど、私が博物館を見終えて、又戻ってきた12時近くには、全員の子が、それなりに描けていた。さすが画塾の子どもたちだ。

 午後、シェリー・チトラ美術館でインドの細密画を見終えて、中国や日本の古い絵画を見ていたら「長野市相生町」の字が書いてあって、オレンジのような絵に「Fruits」というタイトルで中国画という名札が出ているので〈これは日本の果物の箱にくるんである八つ切大ののし紙に違いない。〉と思いながらメモをしていたら、美術館の人が「スケッチをしてはいけない」と、きびしく私を叱った。
 「スケッチじゃなくて、これ日本の絵なのに中国の絵になっていておもしろいからメモしていたのよ」というと、係員はあわただしくどこかに消えた。
 そして男性を連れてきて
 「私どもは美術館のものだが、日本の作品と中国の作品の区別がつかないので教えてほしい。あなたは日本のアーティストらしいが、ぜひお願いしたい」と言われてしまった。アーティストと言ってくれたのだから、私もトンガ行きのために作っていた英文のキミ子方式のチラシを出し、自己紹介をした。
 「広重」「玉峰」「国芽」など、私にもわかるのは「これは日本の作品」と言えるが、サインの感じがくずしてあって、なんて書いてあるのかわからないのもある。
 一通り、わかる範囲で説明したら、それを熱心にメモし、モハムと名乗る学芸員は「ありがとう、とても感謝したい気持ちで一杯だ。ところで、あなたの作品を美術館で展覧会をしてはどうか? ジャパンアートとして」と、提案してくれた。
 「私の作品だけでは少なすぎるので、17日に私の生徒さんのグループが日本からこの町に来るので、その人たちが描いた作品を合わせればなんとかなる。しかし、トリバントラムに居られるのは、18日、19日と二日間だけなのです」と言うと「一日の会場費が、50ルピー。その他備品など200ルピーでどうか」と言う。あまりにも突然のことなので、頭の整理がつかない。
 「ツアーの人と、ルシアホテルで17日の4時に待ち合わせしているので、相談して決める」というと「17日の7時に、あなたのホテルに打ち合わせに行く」と熱心だ。展覧会会場は午前中に写生会をしていた建物に展示してもらうことにした。あそこなら、外からまる見えだから都合がよい。
 私も展覧会の話のあった翌日、プールのある立派なリゾートホテルで「木の葉」を、三原色と白で描いた。
 17日の夕方、スケッチツアーの人が着いた。来たばかりで作品は少ないが、スケッチブックに描いてある作品をことごとく集めて、30点くらいになった。困ったのは、ペンで描いたスケッチは、キミ子方式の主流ではない。三原色と白で絵の具を使って描いた作品は、今夜ホテルで描くしかない。
「展覧会に出品する作品を描いてくれる人、私の部屋に集まって」の呼びかけに、磯貝京子さん、上田純子さん、佐藤純子さん、戸川由紀さん、箕輪和子さんが、私の部屋に来てくれたものの、このホテルの照明が暗くて、絵を描く雰囲気ではない。結局、その夜ホテルの室内では「髪の毛」「空と後ろ姿」を描いた。
 中学生の戸川由紀さんは
 「うれしいな、インドで展覧会ができるなんて。私なんか絵を描いていると何時間でも退屈しないし、寂しくないんだ」と自分の〈足〉や〈左手〉などをスケッチしている。
「徹夜でも看板を書きます」というモハム氏に、看板の布代、展示用の紙代などで一〇〇〇ルピー、館長にあげる花代二〇〇ルピーと総額一二〇〇ルピー渡した。

 18日は、私たちは市内観光の予定だ。11時頃に美術館に行って、自分達の展覧会を見ようと予定をかえた。
 楽しみにして、11時に美術館のある公園に行ったら、展覧会のようなものはやっていない。一瞬〈サギか?〉とびっくりとしたら。
 「水彩画だから、雨にあたると作品が汚れるのでまずいと、あの場所はNoが出た。他の場所を使えないか館長にあたってみよう」とモハム氏は説明する。そういえば、今にも雨が降りそうな天気だ。
 私、モハム氏、通訳兼ツアーガイドのラビシャさんと、館長にお願いすることにした。その間、ツアーのメンバーには、公園でスケッチをしてもらうことにした。
 館長室の前で面会の人が待っているために長い時間を費やし、やっと順番が来て、どんな小さな壁面でもいいから貸してもらえないかとお願いした。しかし館長の答えは「この公園には空いている部屋はないし、外ではまずい。残念ですができません」と断られてしまった。 
 断られて廊下に出たら「近くに美術大学があるから、そっちはどう?」と学芸員のネヒラカングン氏も加わり、私たちはオートリキシャ、ネヒラカングン氏はバイクで、芸術大学へ「展覧会の会場がほしい」とお願いに行った。
 芸術大学の学長は「あいにく、芸術大学は今、工事中で使える場所がない」。とつれない返事。
 そのうち学長が「日本人アーティストのスズキ○○と友人なんだ。」とか、日本人の名前をもう一人言ったが、私の知らない名だ。
 「そうだ、ハンドクラフトリサーチ,デベロップセンター,ジャパンプロジェクトでやったらどうか? ちょうど、アキラ・フジサワが、昨日、日本から来たので、彼がイエスと言ったら、そこの会場でできる」と学長。「それはいい考えだ」とモハム氏、ネヒラカングン氏も大よろこび。
 その場で学長が藤沢氏に電話してくれた。そして、私に電話をまわしてくれた。おー日本語だ。
「クラフトセンターは、やっと出来たばかりで多くの人はまだ知らないから、もっと沢山の人が見に来てくれる会場がいいのではないですか? どこがいいかなぁ、クラフトセンターを使うことはOKですが・・」と好意的にな返事をもらうことができた。
 そこで、モハム氏が
 「芸術大学の学長に展覧会に来てくれるように、あなたからお願いしてはどうか? 彼が来てくれるとハクがつくよ」と、私に小声でささやく。通訳氏も私をけしかける。なんだか学長はいばっているように見えてこわかったが、でも思い切ってお願いしたら「いいですよ。よろこんでいきます」。
 モハム氏もよろこんで「展示はしておきます、4時半にレセプションの会場も設定しておきます。新聞社やテレビ局も呼んでおきますので、その時のお茶代一〇〇〇ルピーほど用意しておいて下さい。」
 「又、お金?」と、私がちょっとムッとしたら、ガイドのラビシャさんが「約五〇〇〇円位のものじゃないですか、持ち合わせがなかったら、私が立て替えますから、この国ではレセプションは大事ですよ」と、教えてくれた。そう聞くと、もっともだと思い、「お願いします。お茶代はその時にお支払いします」
 こんな思いがけないハプニングもあり、インドの南端の唯一国際空港がある町トリバントラムから、インド洋とアラビア海の見えるケープコモリンに、夕陽を沈むのを見にバスをとばした。
 こちらの町もヒンドウ教の巡礼地で、入れ替わり立ちかわりお祭り騒ぎのような人々の群だ。

 翌朝、早くホテルへ。藤沢さんから電話があり
 「こちらは不思議な習慣がありまして、オープニングレセプションを派手にやるんです。知っていますか?」と聞かれ、私は
 「19日は早朝から、ユネスコ世界遺産のバックウオーター船で船旅に行きますので、帰りは早く切り上げて3時半か4時に会場に着くと思います。そして4時半から、オープニングではなく、ファイナルレセプションをすることにしました。」と伝えた。
 4時頃に会場に着くと、看板(といってもインドでは布に文字を書くのだ。板ではない)が、実にうまい具合に、あちこちに貼りわたり、ぶらさがっていた。
 黒ぬりの車も5・6台は停まっていた。芸術大学の学長さん、藤沢氏、彫刻家、この町の芸術家の名士たち(みんな男性)、そしてテレビ局まで来ていた。
 会場に置いていたチラシは、トンガ用につくったチラシの裏面コピーと、表紙はカトリーナが英字版毎日新聞に書いた文と一緒の波多江さんの写真(私が走りながら教えている写真)と、純子さんの上野公園のスケッチと、佐伯佐代子さんの日本画風美人画を並べたものだ。
 クラフトセンターの受け付けの壁には、日本のとインドの国旗が貼られ、ロビーの壁には、厚紙でできた台紙に貼ったスケッチが展示されていた。奥の部屋のテーブルにはビスケットとお茶。一番広い部屋には30脚くらいの椅子がならび、テーブルにはローソクとローソク立てが用意されていた。
 一通り展覧会を見、写真を取った。我がツアーの人たちは
 「レセプションはキミ子さんだけでいいんじゃない? 私たちは買い物もしたいし、町までバスで運んでもらうわ」と言う。まあ、それもしょうがないわと、あきらめかけていたら、ガイドのラビンさんが「それはまずいですよ。あなたたちのためのレセプションなんだから。30分くらい遅くなったって店は開いてますよ」と、みんなをレセプションに参加させた。 
 ローソクに火を灯しおごそかに、司会者が挨拶。インド側参加者の一人一人が英語で挨拶をしてくれた。インド勢12名、私たちは14名。そこに、テレビ局のクルーが撮影を始める。
 インド人の一人が「オープニングパーティーを祝します」と、ファイナルパーティーなのに、いつもの癖(オープニング・・・)で挨拶をした。
 クラフトセンターは、インドの古代仏教彫刻に魅せられた藤沢氏やインドの芸術家たちが、忘れそうになっていくインド古代仏教彫刻の後継者を育てようと、古い館を買い取って三年かけて、ギャラリー兼アトリエに、やっと開館にこぎつけた館だった。

 4日目は、ビーチリゾートとしては最高のモルジブへ。
 ここはインドの一部だと思っていたら、一二〇〇の小さな島でできているモルジブ共和国で、回教の国、お酒もタバコもダメなのだ。
 夜、インドサリーで着飾った私たちは、夕食後にサメを見に桟橋まで散歩し、桟橋の上で満天の星の下、海風をうけながら自己紹介。
 午前中、体験ダイビングを初体験した。
 午後、60cm位の深さの透きとおった海に魚がいっぱい、その色とりどりの魚達につつかれながら、どこまでも続く海を泳ぐ。

 26日からの、8日間遺跡見学グループは、ボンベイ、オーランガバートを基点に遺跡、石窟めぐり。
 それにしても、ボンベイからオーランガバート行きの汽車の一等車の冷房はきつかったこと。ついに私は洋服の上にパジャマを着込んだ。二等車は窓ガラスがないので自然の風が入り、現地の人と交流できてかえって楽しかったそうだ。普通は5時間のところを、10時間もかかってマンマードについた。
 エローラやアジャンテの遺跡を見たら〈人間のできないことはなにもないじゃないか〉と私の中に新たな力がわいてくるような感じがした。
 帰りは飛行機は30分だからと安心していたら、我ら24名の内、18席しか予約が入っていないのにはあせった。若者組6名は汽車に乗って帰ってもらうことにした。列車組は、ボンベイについたのは、真夜中の2時過ぎていたのではないだろうか?
 世界屈指のホテル、タージマハールホテルに泊まり、やっぱり良いホテルはスバラシイ。

 今回のスケジュールは、南インド・モルジブグループも、8日間遺跡グループも、考えられる中で最高のスケジュールだったのではないかと思う。
 近畿日本ツーリストの岡崎さんと、何度も打ち合わせしたこともよかった。
 来年はトルコのカッパドキアに行きたいと自然に浮かんだ。人里離れたところに行こう。今回の旅行で仏教やヒンドウ教、ジャイナ教の信仰の対象として作ったモノが芸術作品として我々にせまるので、次の機会にはキリスト教のモノも見たくなったのである。
 でも、トルコは寒そうなので、エジプトやアルゼンチンなど、あったかいところへ行くのもいいかなと思っている。決まりしだい、お知らせします。
 97年の年末には、ご一緒に旅行に行きましょう。いまから計画していて下さい。

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