「せかいじゅうのいろ」
たのしかった。いろがいっーぱいできて、おもしろかった。それに、不思議ないろができてよかった。わたしは、まるで世界中の色みたいだった。
小学部5年 くわばらよしえ
上の感想文は岐阜県岐阜盲学校の全盲の生徒の感想文である。
感想文は、全盲の子どもがしゃべり、ボランティアの大学生が文字にしたものである。 |
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盲学校の神谷先生から「毎月一回、ウイークエンドサークルという行事があって、全生徒が集合して、何か楽しいことを、ボランティアの人も含めてしてきたが、今年度最後は、ぜひ、キミ子方式で絵を描きたいので、教えに来てほしい」という依頼があった。
「はじめてなので、3原色の色づくりがいいですね」と答えると、
「色づくりではなく、何かもっと絵らしいものを教えていただけないでしょうか」と、ねばられてしまった。この粘り方は、キミ子方式を知らないなぁと、すぐわかった。。
電話があってすぐの十一月はじめに、同じ岐阜県で仕事があったので、そこを神谷先生に見学してもらうことにした。見てもらえば〈色づくりのたのしさ〉をすぐ、解ってくれるはずだから。
その会では、約10名のキミ子方式体験者に、〈木〉と〈空〉を教えてほしいという約束だったけれども、実際に現場に行ってみると、木と空を描く環境がなく、画用紙も筆もそろっていなかった。当日参加した人は、ほとんどキミ子方式が初めての人で幼児が半分近くいた。全体で約50名くらいだった。
パレットも31個しかなかった。そこで急いで、ファミリーで一枚の画用紙に、3原色による色づくりをすることに変更した。
それを見てもらって、色づくりのたのしさをイメージしてもらった。そして、神谷先生は納得された。
キミ子方式を考えだした時は「ものを見るとはどういうことか」「ものの見方がわからないということはどういうことか」を考えていったら、目が見えない人、耳が聞こえない人に、どうやって、ものの見方を教えたらいいのかと、考えていけばいいのではないかと、気がついた。そして「一点からとなりへとなりへさわる動作」「音」「リズム」「イメージ」で伝える方法=キミ子方式が確立した。
キミ子方式は、本来、目が見えない人のために考えた方法だから、どんな絵も描けるけど、3原色の色づくりのたのしさをはじめに教えてあげたかった。
とはいえ、私の目が見えない人を教えた経験は過去に二人しかいない。
二十年前に失明した尾道市の40代の女性に〈もやし〉の絵を教えたのと、未熟児網膜症で全盲の高崎市の音楽短期大学生に、色づくり、もやし、イカ、ネギを教えただけである。それと、九州の盲学校で、体育専攻の先生が『三原色の絵の具箱』(ほるぷ出版)を見て、最初から一頁づつ絵を教えたという実践報告を受けていた。
その経験と情報で十分である。盲学校の生徒にも、何の遠慮もせずに、他の人と同じように、キミ子方式で描いてもらってもうまくいくという確信ができていた。しかし今回、19人を一度に教えるというのはやはり不安であった。
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盲学校のすぐ近くの公民館に、ボランティアの岐阜大学生と一緒に集まった、全盲六名を含む19名の生徒達は、土曜日の午後のレクレーションということもあるのか、うれしそうにやってきた。
〈絵を描くということは、楽しいレクレーションだから、ボランティアの学生さんと楽しい時間が流れるといいな〉と思った。
「今日は〈二人で一枚の絵を描く〉という感じです。全盲の生徒さんにお手伝いするときは、右利きの方は、後ろから身体を抱くようにして、左肩に手を添えて一緒に右手の上から右手を添えて筆をもち、色ができたら、色の名前を、ボランティアの人は必死でさけんで下さい。
『あっピンクだ』『春の山の色だ』とかね。だから今日、教室中に色言葉が飛びかって、うるさくなるだろうと思います」
まずは15色をめざして、3原色から色づくり。次は25色・・・。
予想通り、ボランティアの学生さん達が
「アスファルトに雨があたった色」「シャケを一週間冷蔵庫にいれっぱなしにした色」「あっ、あなたの今日の服の色」「あなたの洋服を一週間洗濯しなかったらなる色」。なんのこっちゃと思っていたら「僕は洋服を洗濯しますよ」と、生徒は怒りだした。
色づくりはうまくいくことは予想できたが、驚いたのは、できあがった絵の余白の画用紙を手でちぎる時であった。
この手でちぎる方法は、数年前にたまたま80名の生徒を相手に講座をした時に、ハサミを忘れてしまったのがきっかけだった。
ちぎってみると、幼児や小学生の低学年や中学生の子ができないということがわかった。つまり体験していないということだ。だったら、この期に、あたらしい体験をしてもらいましょう。手でちぎると画用紙のヘリがギザギザで、和紙のようなあったかい感じになって楽しい。
その、まわりを手でちぎるのを盲学校の生徒は、我意を得たりという感じで、生き生きと動作する。絵を描いてあるところの画用紙を手でさわり、ざらざらを確かめ、絵を描いていないところを、右指と左指を接しながら、隣へ隣へと作業していく。まるで盲学校生のために考えた方法のようだった。 |
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「私の宝石」〈絵のタイトル〉
高島道子
楽しかったです。頭の中で想像した色を聞いてみたら、想像した色ではない色がたくさんあって、普段自分が思い出す色以外の色も今日は想像できてよかったです。
絵の具のかたさによって、ぬりごごちが全然違っていたから、かたさが違うと色もちがった気がした。でも、そんな感じがとても懐かしかったです。 見えなくなっても、たぶん、絵は描けそうな気がしてきました。
この人は途中失明者だそうで、高等部専攻科理療科で、二十歳をこえている。文字はボランティアの人が書いた。
弱視の中学生は
「知られざる色」〈絵のタイトル〉
松尾崇弘
色のことは今まで「赤」「青」「黄色」という名前しか知りませんでした。でも今日は、いろいろな色を作って、言葉でいいようがない色があり、改めて、多数の色があることを感じました。色を作る時に、色がかたよってしまったので、もっと幅広く作れると良かったです。
でも、多数の知らない色までつくれて、有意義な時間が過ごせました。
ボランティアの学生のコメント
「とてもしっかりしていたので、大変、楽をさせてもらいました。自分自身が色盲で色の違いがわかりにくい時がありましたが、楽しみながらやれました。同じ色が二度と作れないと、あらためて思いました。」
できあがった絵を壁にはり、その絵をさわって眺めた。
背の低い人は、ボランティアの学生さんが肩車をしてもらって、色で描いたところをさわり、まわりを手でちぎったギザギザのところをさわって楽しんでいた。
色をさわっている時に、
「あなたの今さわっている色は、うすみどりよ、それはこいみどり」などと声をかけている人があり、全盲の作者は、さわりながらニッコリしていた。
「彼らには〈もやし〉や〈イカ〉なんでも描けますね。むしろ同年齢の他の子より、しっかりしていて、感じること、考えることに敏感のように見える」と、係の神谷先生に伝えた。
寒かった二月の岐阜も、心豊かになって帰ってきた。
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