エッセイ目次
 

No99
1997年7月4日発行


キミ子方式全国大会へ行きましょう 金沢

 「金沢」という名には、なぜかずーっとあこがれをもっていた。室生犀星の住んだ町、北陸、日本海の古都、遠くの町。そして、そこには金沢芸術工芸大学があったからだ。
 私の第一志望大学は、東京芸術大学だが、第二志望は、金沢芸術工芸大学だったからである。
 北海道の田舎町の美術の授業のない高等学校に行っていた。美術の授業がないのに、美術部があった。美術部の先輩達には、当時から漫画家として稼ぐ人がいたり、北海道の代表する大きなグループ展〈新進展〉に入選する人がいたりで、活気があった。私は毎日、美術部に入り浸っていた。生まれて初めてタバコを吸ったのも、美術部の先輩にすすめられたからだ。
 一年先輩のRさん〈今や有名なイラストレーター〉が、現役で金沢美大デザイン科に合格したというニュースが流れてから、私は必ず東京芸大に入って金沢に遊びに行くぞと決心した。
 その時から、自分に暗示をかけるために、ノートや教科書に〈東京芸術大学、彫刻科一年 春山キミ子〉と記名していた。彫刻科志望だった。結局2年浪人して、東京芸大に合格したので、先輩を訪ねたのは、3年後のことだった。

 鉄道の駅を降りて、すぐ行ったところは兼六園。入場するのに有料で、入場する人をグループに組まされ、マイクを持ってガイドする女性がいて、うるさかった。おかげでその時から兼六園が嫌いになった。
 室生犀星が好きだったので、犀川の橋の上から、染めた着物の生地を寒い川で流しているのを、ぼんやり眺めた。色のない街で、川に流される赤い生地が川の音と共に今でも思い出す。
 忍者街のように、すぐ行き止まりになる昔風の建物の路地をあてどもなく歩き、それから、金沢美大に向かった。金沢美大はレンガ作りの校舎だった。
 私が芸大の学生ということで、金沢美大の男子寮にタダで泊めてくれることになった。先輩が交渉してくれたのである。
 金沢美大のある駅から電車にのって郊外の寮へ行った。
 男子寮には、畳の立派なゲストルームがあり、セルフサービスで無料の食事もあった。ただ、男子寮なので、めずらしい動物を見るように、男子学生にジロジロ見られ、部屋の前をうろつかれた。
 夕食が終わって、寮中がなにやらベタベタと殺気立っている。月末なのだ。デザイン専攻の先輩の部屋に友達が数人集まる。殺気立っていたのは、定期を偽造するためだった。
 先輩は、来月からの定期券を誰かが代表して買いに行かせて、それを6カ月定期に日時を書き換えて、そっくりに偽造するのだと言う。
 「バレない定期ができたら、俺の腕がデザイナーとして一流っていうことさ。それにしても寮生は定期を買わないと、駅員がブツブツ言っている」「この間なんか、くわしく見せろと駅員に言われて、ヒャッしたけど大丈夫だった」「定期代は高いからさ、まともに買えっこないよ。俺たち貧乏なんだから」と言いながら、お酒を飲んだり「あそこのジャズ喫茶のコーヒーは最高だ」「○○のバーは・・・」「先月行ったパチンコで・・・」などと話に花が咲いていた。
 ○金沢での第一回の絵の会
 
 金沢には青春時代の思い出があるので、金沢で初めて絵の会に呼ばれた時に「飛行場まで迎えに行きます」という主催者の申し出を断った。
 仕事の会場に着くまでは、私の旅をしていたかった。
 「いいえ、私が会場までバスで行きます」
 小松空港から、冬の日本海を見ながらの金沢行きは、胸高鳴った。ところが、会場近くのバスの終点に着き、そこから歩いて会場にいこうとバスを降りようと足を一歩雪の上におろすと、ズブリと足が埋まり、その雪の下は水たまりだった。私はハイヒールだった。バスの折り場だけでなく道路中が水たまりなのだ。そんなバカな。
 北海道の雪は、雪の下も雪なのに、金沢は雪の下が水たまりなのだ。
 どこか食堂に入ろう。さて、どこがいいかと見渡したら、パチンコ屋の前の小さな食堂に、中年の男女がかけ込む。旅人のカンで、私もそこへかけ込む。
 一〇〇円、二〇〇円、三〇〇円と区別された棚があって、そこにお皿にのったおかずが並んでいる。ごはんとみそ汁を注文し、自分で勝手にその棚から好きなおかずをとる。手作りのいい味。旅に出た喜びがわいてきて、足の冷たさも忘れた。
 絵を描く会場は、大きな会場で全館暖房がととのっていたので、びしょぬれの靴も、いつの間にか乾いていた。ところが、講座のひと区切りに会場の外の喫茶店にコーヒーを飲みにいこうということになった。
 「ハーイ、私も行きます」と、小走りに外に出たとたん、ズブリ、ベチャベチャと、また水たまりに足をつっこんでしまった。逃げ道はない。どの道路も同じなのだから。
 「あっ!」と思った時はもう遅い。金沢方面の人は、ゴムでできた革靴模様の足首まである靴を全員はいているのだ。
 午後はまた、グチュグチュずぶぬれの靴のまま講座を続けた。

 東京の自宅に戻ったら、両足がシモヤケで赤くパンパンにはれあがった。靴下の中に、とうがらしを入れ、その上にやけっぱちになって、フィリッピンで買ってきた不思議な薬をつけた。
 フィリピンの不思議な薬とは、第一回スケッチツアーでセブ島に行った時のこと。ある薬局で一時間くらい焼けた鉄をさわったりするショーがあって、その後に大事そうに出してきた薬を塗って直すというショーだった。私たち20名はしらけて、誰も薬を買わなかった。
 ショーマン6人くらいが、わざわざ火傷までして見せたのに、誰も買わないとは、ショーマンたちがかわいそうと、私は六千円出して火傷の塗り薬を買った。
「キミ子さんだまされやすいから」とスケッチツアーの仲間に同情された。
 その不思議な薬は、一度も使わずに、洗面所の台に置いてあった。シモヤケで足がジンジンする。私は、今やなんでもいいから直りたい。六千円のフィリピン薬を足にべっとりつけて、赤とうがらしをまぶして寝た。
 翌朝、奇跡がおきていた。まるでシモヤケが夢だったように直っていた。

 今年の全国大会は、私を石川県金沢市の講座を主催してくれた貝田さん達が主催します。会場は、小松空港から20分の片山津です。石川とか、片山津のある加賀市とは、金沢市のすぐ近くです。ほとんど金沢です。
 日本海側でのキミ子方式全国大会は、鳥取市でやったのに次ぎ、二度目です。めったに北陸には行けませんのでぜひこの機会に参加して下さい。
 地元で捕れるカニや湖の風景を描きます。
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