エッセイ目次
 

No104・5
1997年12月4日発行


家族に教える

 もうすぐ一九九八年。気になる年だ。私が58歳になるからだ。
 ついに生きてしまった。母が死んだ年まで。母が58歳でなくなった時、私は27歳であった。私の誕生日に父が死に、一ヶ月半後に母が亡くなった。
 母が死んで八年後に、誰でも絵が描けるキミ子方式を考えてついた。母に絵を教えたかった。父にも絵を教えたかった。
 女子美術短期大学の「美術教育法」を教えている私は、「教育とはコミュニケーションだ」「教えること、伝えあうことで人間関係が気持ちよく広まるように」という願いから、学生に宿題を出している。
そして、学生たちに「誰でも描けて、誰でも教えられるキミ子方式を、誰かに教えること」という宿題をやってきた。作者の感想文と教えた人の感想を添付する約束だった  家族や友人、恋人、兄弟、姉妹、親戚の人、出入りの大工さん、バイト先の人などにキミ子方式を教えることになった。

○両親に教えて 絵画専攻 小見可奈子

 教える相手を考えた結果、両親に行き着いた。連休を利用して実家に帰り、この話をした。
 どんな反応がかえってくるか楽しみにしていたら、母は、まるで嫌いな物を突きつけられたようにのけ反った。
 父はちょっと気まずそうな動きをしていた。
 私は期待を裏切られたようなショックがあった。しかし、言い方に問題があったような気がして、もう一度言い直しながら、松本先生の美術科教育法の講座の内容や、自分が楽しいと感じた事などを聞いてもらった。そのうち「描こうかな」と言ってくれた。
 母が最初に描きはじめ、紙と向かい合っている姿を見て、私はある事に気づいた。なぜそんな重大な事に気付けなかったのかと、しばらく母を見入ってしまった。母は私の目の前で初めて絵を描いているのだ。絵の具を使っている母を見るのは初めてで、それだけでなくイラストやメモ程度の絵すら見たことがなかった。私は再びショックを受けてしまった。
 そしてすぐ人前で描かない理由がわかった。描き方がわからなかっただけだ。それなのに、才能がないから描けないと思っていたのだ。
 高校時代の進路選択で、美術大学を受験すると決めた時や、短大に入って早々に問題になったのは常に就職についてだ。私と両親の考え方が一致しなくて、口喧嘩になったり、どうしてこうなるのよと疲れて話し合うのを避けていたように思う。その原因が自分にあったという事を、人に教える事を通じてはじめて知った。
 私は、いつも自分の描いた絵を相手に押しつけるばかりで、逆の立場から見るのを気付くことができなかったと思う。
 父や母が描いてくれたマフラーは、同じモチーフから出た色でも二人を比べて違いがあった。
 同じように教えたはずだが、編み目に描き方もそれぞれで、見ていて楽しかった。特に描いている時の表情が一生懸命で、笑顔が見られたのがなにより嬉しかった。それ以前の誉められる嬉しさとは違い、さらに爽快感のあるものだった。相手の喜びがこんなにも自分に響いて帰ってくるものだと思っていなかった。

○生徒になった、父の感想
 マフラーの編み目と柔らかさを表現するのに大変な緊張を感じる。色合わせ調合による色彩の楽しさを認識できた。気持ちが固くなり、柔軟、暖かさが欠けてしまい、もっと自然体で物を見る習慣を覚えたいと思う。

○生徒になった、母の感想
 絵を描く事なんて学校卒業以来で、初めはどうなる事かと心配したが少しづつ格好がついてきて、何とか描けて一安心しましたが、簡単に描ける様で仲々難しいものだと感じました。
 4色だけの絵の具でとの事でおどろきましたが、画用紙に描く以前に、パレットの中で絵の具を組み合わせて、自分の色を出すのが難しく、ちょっとした加減で微妙に色が違ってきて、当たり前の事なのですが、新鮮なおどろきでした。もう少していねいに描けばよかったかなぁと思いましたが、でも子どもに教わりながら、思いがけないひとときを過ごせてとても楽しく有意義でした。

 小見可奈子さんの〈宿題の絵と感想文〉を読んだ時、とてもうらやましかった。娘に教わりながら絵を描く両親、両親のうれしそうな顔を発見して幸せになる娘。
 子どもと一緒に、何かをする事が楽しいとは、親になってはじめて知った。
 その事を、川越の八百屋さん榎本さんに言った時「そうですよ、娘が店を手伝ってくれた時、うれしくって、思わずニヤける顔を隠すのが必死でしたよ」と話してくれた。
 私の父が何故、子ども達をいつも畑につれ出して、農作業を手伝わせたか。私たち兄弟は父の魔の手から逃げるために、学校の図書館に遅くまで居残ったり、兄達は町に下宿したりした。家にいる者は絶対に父の手伝いをしなければならなかった。
 小学生の私が、父と半分づつ肥オケをかつぎ、足元に激流が流れる川沿いの、雨上がりのすべりやすい下り坂も歩いた。その恐怖はずーっと後まで引きずった。大人になって、本当に恐怖を感じていたのは、むしろ父の方だったのではないかと気がついた。それは、山岳部に入って、山岳部のリーダーになった時だ。それにしてもなぜ、父はあんな危険なことをしたのか。
 あの時、父は「家が貧しいので自給自足しなければならない。だから子どもも働かなければならない」と言った。それが屈辱だった。でも、私が親になって気がついたのは、子どもと一緒に働くのが楽しかったから、いつも子どもを誘ったのにちがいない。「子どもと一緒に働くのが楽しい」と言ってくれたら、私はもっと自信をもって生き生きと手伝っただろうに残念だ。私が自分の仕事を息子たちに手伝ってもらって気づいたので、誰かに言いたくてしょうがない。
 九州のある農家で、この話を教員をしている息子さん夫婦を前にその父親に話したら「そうですよ、息子達と畑へ行くのは楽しいです。孫が一緒だと、もっと楽しい」とニコニコとうれしそうだった。
 「そのこと、息子さん達に伝えていなかったでしょう? 私の父のように」と私が言うと、息子たちは、初めて聞いた父上の言葉に「エェ!」と驚き「そうだったのかー」と深くうなずいていた。
絵の描き方を教え、絵を描いてもらうこと、一緒に仕事をすることは、おいしいものを共に食べるのと同じ喜びだ。もっとかもしれない。
だから、そこに誰かがいたら「絵心がないから」「絵のセンスがないから」「ボケているから」とか「目が見えないから」とか「知的障害があるから」「手が動かないから」などと言わず、どの人も仲間に入れて、共に喜びを分かち合い、喜びを増やしてほしいと思う。そして、それが愛する家族とだったら、最高の喜びだと思う。

 キミ子方式を始めて二年がたちました。私は前よりずっと絵が好きになり、ヒマがあれば、家の庭や家の近くの一二山に行って草花の絵を描いています。
 私が一番思い出があるのは、おばあちゃんに〈リンゴ〉の絵を教えてあげたことです。うちのおばあちゃんは体が不自由で、手もあまり動きません。手を動かさないと、もっと手が動かなくなってしまいます。それで、私と妹で、まず〈色づくり〉から教えました。
 赤・青・黄色それから白をだして、色をまぜあわせていきました。〈色づくり〉が終わって最後に〈リンゴ〉の絵を描きました。
 筆を持つおばあちゃんの手がふるえていて、絵が少しまがったりしましたが、やっとのことでおばあちゃんの最初で最後の絵ができあがりました。とてもおいしそうなリンゴです。
 あの時描いた絵が、最後の絵だなんてぜんぜん思っていませんでした。お母さんと「また絵を教えようネ」と言っていたんです。でもキミ子方式をならっていて一枚の〈リンゴ〉の絵ができあがりました。ほんとうにキミ子方式をならってよかったです。そして心からありがとう。

 年末からお正月にかけて、多くの人は親戚や友人に会う機会が多いのではないでしょうか。そんな時、みんなで〈三原色による・色づくり〉とか〈モヤシ〉とか〈空〉の絵を描いて、楽しく遊んではどうでしょう。道具がなけば、トンガ方式で、一本の筆、一つのパレットでその道具を廻しながら、一枚の画用紙にたくさんの色をつくっていく。そして、それぞれがつくった色を眺めながら、ごちそうを食べたり、お酒を飲んだりしたら、楽しさ度がグッと上がるように思いますが、どうでしょう。
 「あなたと一緒に絵を描くと楽しいからやりましょう」と誘って下さい。
このページのTOPへ