エッセイ目次
 

No111
1998年7月4日発行


はがき絵の画集

 福田泰子さんから『あした天気になぁれ』というハガキ絵の画集が送られてきた。
 以前に「ハガキ絵を画集にしたいのだけど」と電話で彼女から相談された。丁度、居合わせたインデックス出版の田中さんを紹介して、お二人は電話で何やら話していた。それから二、三ヶ月後のことだ。
 「以前に話していた本がやっと出来上がりました。友人と楽しみながら作った手づくりのものなので雑なのですが・・・。絵を描きながら『これはキミ子方式では、どう描くのかしら?』『キミ子さんならどう教えて描くのかしら?』と思ったり悩んだりしたものです・・・(以下省略)」と手紙が添えてあった。
 福田泰子さんには、直接絵を教えていないと思う。しかし、ご長男の基くんに教えていた。確か、彼が小学校一年生くらいの頃から、練馬区大泉学園にある「OZ」という郊外デパートの中にあるコミュニティカレッジで教えていた。その証拠に、福田 基くんは、私のビデオ『三原色の絵の具箱』の〈毛糸の帽子〉を描くシーンに出演している。彼は毛糸の帽子をにらみながら色を作り、描き終わる時に描いた絵がうまく画用紙におさまったので「ギリギリセーフだ」と叫んでいるその少年だ。
 一九八二年に『三原色の絵の具箱』(ほるぷ出版)が出て、それから本に合わせてビデオを作ろうという話になったから、ビデオの撮影は一九八三年。
 どんなビデオを作ったらいいのか。監督は元NHKの方。撮影はドキュメンタリーやドラマで数々の賞を受けている原田 勲さん。
 原田さんは何と、昭和四十一年に「光は三原色だから、その色の組み合わせですべての色ができる」と考えて「テレビにおける三原色での色づくり」に関する技術論文で、日本映画・テレビ・技術協会本賞をもらっている人だ。
 原田さんがその三原色を気づくまでは、黄色の猿が赤い色のバナナを食べているような色がテレビに映っていても「色がついている、白黒じゃない」と人々は感動していたそうだ。
 私に会うなり、原田さんは
 「やあ、驚きました。絵の具も三原色だったのですね。光の三原色を見つけた僕が、この仕事をしなければと思って・・・。見て下さい。光もみごとな三原色ですから」というなり、テレビの画面の上に直径十センチくらいの拡大鏡をペタリと張りつけた。その中は、赤青緑の点々だけが拡大されて並んでいて「あっすごい!」と叫んでしまった。
 その頃、あちこちのカルチャーセンターで、幼児や小学生、大人達にキミ子方式を教えていた。その現場で、実際に教えているところをドキュメンタリー風に撮影して、ハウツービデオを作ろう。お行儀のいい、上手な人が絵を描く見本風のビデオではなく、絵を描く集団、描く人の表情や動作がでるような、特に直し方が見る側に伝わるようなビデオを作りたい。あとは原田 勲さんにおまかせだった。
 その頃、私は経済的にも精神的にも余裕がなくて、毎回、どのカルチャーセンターに行く時も同じ洋服を着て行った。
 はじめのシーンは最後に撮影したのだったが「又、同じ洋服ですね」と監督に言われ、「じゃ、あなたのセーターを貸して下さい」と言って、六十代の監督のグレーのセーターを着て、モンペをはいてビデオの一巻のトップシーンに出演している。あのまじめなNHK風の挨拶のトップシーンが、私は好きになれなくて最後まで反対した。監督を説得できないくやしさが、監督のセーター着用になってしまった。
 あのビデオでは、最後のシーンが一番好きだ。
 福田 基くんは、今もビデオの中で小学生だ。彼には日生劇場での「子ども達の未来」というシンポジウムに出演してもらって、長い間つきあってもらっていたが、私が高崎芸術短期大学勤務が始まり、川越教室を除きカルチャーセンターから遠ざかったが、他の講師で小学校六年までキミ子方式に付きあってくれた。
 基くんのお母さん福田泰子さんとは、基くんの送り迎えで顔なじみだったし、年賀状のやりとりをしていたが、まさか、こんなにまじめにキミ子方式をマスターされていたとは。そして絵や文を書いている人だとは知らなかった。

 この『あした天気になぁれ』というハガキ画集はなぜ生まれたのかというと、泰子さんの同僚「育子さん」が帰省先でクモ膜下出血で倒れた。それを知って
 「・・・字を読むことは無理なら、絵でいこうという思いが、ふと浮かんだ。単純な発想だった。私には変な習慣があるらしい。動揺したり、パニックに陥った時、じっとしていることが出来ないのだ。じっとしていたら不安は増幅していくだけなのである。行動することでしか落ち着くことが出来ない。父親ゆずりらしい。絵に自信があるわけではない。ただ、ひたすら毎日育ちゃんの快復を祈って、絵を描き続けた。(中略)
 人との別離が突然のことであったりすることが、わたしの脳裏に恐怖感として残っている。その思いだけが葉書を書かせたのかも知れない。」
 育ちゃんは後遺症もなく復職した。泰子さんが送り続けた葉書を育子さんは
「(泰子さんからの毎日のハガキは)私の支えであったが、独り占めしておくわけにもいかない。多くの人に、人の心の暖かさを知ってもらいたい。そうした気持ちを押さえることができなくなってしまった」と本の中に書いている。
 こうして、著者、福田泰子 発行者、笠原育子として、出来上がったハガキ絵画集だ。
 私も育子さんになった気分で、泰子さんの描く草花、やさい、ヌイグルミなどの絵を、そこに添えられている短い文を一枚一枚、ゆっくり味わってじわぁっと心があったかくなっていった。枕元において、何度も何度も見ては気持ちがやすらいていった。
 一五七点の作品集だ。こんなにも絵というのは心がこもるものなのか。泰子さんの身近なものをテーマにした絵と、考えたこと、見たことをつづった短い文がいいからにちがいない。その中に一枚、基くんの作品がのっている。
 「下手になっちゃったなぁ」とぶつぶつ言いながら、のところは思わず笑ってしまった。
 以前、久しぶりに出会った元生徒が
 「キミ子さんから絵を習っていた小学校の頃、どうして、あんなに上手な絵が描けたのだろう」と言ったのを思い出したからだ。

 基くん、今年、結婚するそうだ。おめでとう!
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