エッセイ目次
 

No114
1998年10月4日発行


三原色の国旗の国コロンビアへ

一期一会

 たった一度の出会い
 私が北海道の山の中の小学生だった頃、学校にハモニカおじさんがやってきた。ハモニカおじさんは小さなスーツケースから次々にいろいろなハモニカを取り出し吹いてくれた。二つのハモニカを重ねて同時に吹いてくれた時、目がまわりそうな驚きだった。
 おじさんは小学生の私に、自分の家と、町と、小学校以外の、世界の広さを教えてくれた。大人になったら、あの山を超えたい。そして、広い世界をみたいと、大人になる希望を与えてくれた。
 熊おじさんも学校にやってきた。エネルギーのかたまりの熊おじさんは、熊を鉄砲で倒す時の話や、その危険と勇気と智恵を、汗をふきだしながら語ってくれた。
 〈山の中で暮らす大人ってかっこいい。世の中には様々な仕事があるんだ〉。
 それから、丸木位里、俊子さんの絵「原爆の図」も、新制作座の「泥かぶら」が北海道の小さな炭坑町に来てくれたのだ。
 「キミ子方式」に出会えるコロンビアの人も、もしかしたら一生に一度かもしれない。絵を描くのは〈三原色の色づくり〉だけかもしれない。けれども、私の北海道での体験のように、心躍らせた体験は、たった二時間の出会いでも、確実にその人に生きる希望を与えると信じられる。
 一九九五年、中国での世界女性会議で、世界中の人々を相手に「キミ子方式」のワークショップをやって、歓声と拍手、そしてたくさんの方から感謝の握手をされた。その時に出会ったトンガ王国国会議員のパビロアさんに「トンガ王国へ来て絵を教えて下さい」「トンガ王国は貧しい国なので日本政府の補助金をもらって来て下さい」と言われた。
 一九九六年、国際交流基金の助成(一人分)を受けて、十名のメンバーでトンガ王国へ「キミ子方式」を教えに出かけた。
 市場で、靴も買えない貧しい少年少女や、行商の人たちに絵を教えた。絵の具を見るのも触るのも初めての人たちだった。翌日には〈女性センター〉で大臣や大臣の子息たちに教えたりした。みんな一期一会。
 数年前にメキシコに一人旅をした時、靴も買えない、学校にもいけない貧しいインディオの子ども達と、ピカピカの車に乗った裕福な家の子ども達の貧富の差を見て、ガクゼンとした。泣きたくなるような切なさで、目をそらして足元を見ると、そこにはネコジャラシが咲いていた。あふれる涙をこらえて天を仰ぐとぬけるような青空が広がっていた。
 「そうだ「キミ子方式」でインディオの子どもや大人たちに絵を描いてもらえばいいんだ。そうしたら、絵を描いている間中たのしくて、絵を描き終えたら、空や草花のうつくしさに気づき、そこで生きることに誇りをもって希望がわいてくるだろう。その時私は、十分な絵の道具や画用紙を持って旅に出ていなかった。


いよいよ三原色の国へ
 トンガ王国で、キミ子方式の絵を教えながらトンガ王国の人たちともった交流は、別れの時「あなたは立派な芸術家」「あなたと私は絵を描くことで平等な人間」という、心からの仲間としての握手だった。
 その時、私の中に、次は世界中の三原色の国旗の国へ行きたい、三原色の国旗の国で「三原色のキミ子方式」を教えられたら、どんなに、うれしいだろうと思った。
 日本ではキミ子方式を教える人もふえたから、私は外国へ目を向けよう。しかも三原色の国旗の国へ。コロンビア、エクアドル、ベネゼエラ、チャド、ルーマニア、モルドバ、アンドラ、フィリピン。
 〈この八つの国にボランティアで絵を教えに行こう。それまで、私は死ねない〉と、私の今後の人生の目標が決まった。
 トンガ王国から帰って、スペイン語圏の「コロンビアかベネゼエラに絵を教えに行きたい」と、人に出会う度に言っていた。それら国とちょっと関係がある人にも何人か出会ったが決定打にはならなかった。
 勇気を振り絞って、大使館訪問。ベネゼエラ大使館文化担当官とは、フィーリングが合わず、コロンビア大使館文化担当官は夏休みという日々。ひょっんなことから、北京での女性会議に向けてスペイン語を学ぶために、スペインのマラガにあるスペイン語学校に行っていた時の友達から電話があった。
 私はまたしても「コロンビアにコネがないかしら?」と彼女に訴えた。
 「私の職場にコロンビアの国立大学の大学院に三年留学していた人がいるから紹介しましょう」と言ってくれた。
 友人が紹介してくれた人が佐々木智美さん。彼女は「コロンビア大学教授のマルガリータにコロンビア大学に『招待状を書いて下さい』と伝えます」と言ってくれた。私が持っていった著書をじっくり見て「すばらしい仕事をしているのですね。よろこんで協力します。きっとマルガリータも喜ぶし、コロンビア日本大使館の文化担当の崎原さんも喜ぶでしょう。きっと三人でやることになると思います」と約束してくれた。
 そして、程なくしてコロンビア大学から招待状が届いたのだった。
 「コロンビアとの通信費などは私が負担しますので申し出て下さい」と言ったら
 「いいえ、その必要は全くありません。松本さんにはボランティアでコロンビアに来ていただくのですから、私たちもボランティアします。もし、松本さんから通信費などをいただいたら、マルガリータ達があなたに授業料を出さなくてはなりません」
 私は胸がいっぱいになり言葉を失った。
 一方、コロンビア大使館のエミリア平井さんも、「キミ子方式」に大変興味をもって下さり、すぐにお姉さんに大使館特別電話で連絡をとって下さった。そして、お姉さんの勤める中学校と、その関連学校を紹介して下さった。
 コロンビアへの本や手紙は確実につかないかもしれないと言われていて、メンバーの伊達さんのお兄さんを通して、日本大使に届けてもらうようにと、崎原さんの自宅へ、在コロンビア日本大使館の私書箱、三つのグループに分けて私の著書を送っておいたら、全部無事届いていた。それらの本をもって、崎原さんやマルガリータさんが、あちこちに声をかけてくれて、国立大学、同大学院、私立大学院、小中学校、日本人学校、孤児院、日系人協会付属日本語学校など、八カ所十講座企画された。
 佐々木智美さんに出会って一年ちょっと、いよいよコロンビア行きが実行される。

偶然トンガ王国行きと同じ日に出発
 一九九八年八月一五日。トンガ王国に行った日と同じ日だ。
 旅立つ二週間ほど前に、KDDから七月分の請求書が来た。八十回二万五千円だった。コロンビアへ八十回だ。ここ一ヶ月ほどファックスの調子が悪く、コロンビアへはエラー続きだった。最新式の我が家のファックスは、一回送信し、相手につながらないと五回送信する。八十回というと十六件送ったということである。
 KDDに電話をして事情を説明したら、どうやら我が家のファックスが故障しているらしいことがわかり、ファックス会社の人に来てもらったが、彼は、四時間あちこちに電話をして教えてもらいながら修理した結果「メモリーではなく手動で送信すること。それがダメなら交換手を通すこと」とすっきりしない答えだった。
 そんなわけで、旅立つ直前の「八月十六日14時 55分に、コロンビア・ボコタ空港に着きます。お迎えをよろしく」のファックスは送らなかった。
 「お迎えは大丈夫なのですか?」。八月十五日の成田空港で、同行八名のメンバーの最年長者(といっても私より二才上)の伊達睦子さんが聞く。
 彼女のお兄さんがコロンビアにいて、七月に日本に一時帰国した時に
 「空港へのお迎えとかのお手伝いができますので、希望があったら何でも言って下さい」と言われていたのに連絡していなかった。
 「何カ月か前には、飛行機便のお知らせしているから・・・。それにホテルも空港への送迎付きらしいから」と答え、ファックスの件はだまっていた。
 それよりもコロンビアに着いて、空港へ出る前に、税関がうまく通れるかが心配だ。
 「コロンビアには日本で売っているものは何でもあると思っていて下さい。講座の道具はコロンビア側で用意しますので教えて下さい」とファックスが来たが信用していなかった。カンのようなものである。
 一九九八年五月に行った韓国でさえ、画用紙、パレット、絵の具、が私の希望の物ではなかった。だから白画用紙をはじめ絵の道具は私たちメンバーが手分けして日本製の道具を持って行った。それにキミ子方式の本。
 同じものをどっさり持っていくと商売だと思われて、税金をかけられる。そこで、助成をいただいている国際交流基金から証明書をもらうことにした。「この荷物は国際交流に使うものであって輸出用や営業用ではない」と。
八月十六日、コロンビア・ボコタ空港到着。
 入国の書類審査が終わって、荷物を通そうとした時、税関の職員がうさんくさそうに「トランクを開けなさい」と言った。そして絵の具箱のフタを開け、絵の具のチューブを一つ一つ開け始めた。チューブのフタを開けて、手で押さえられたら絵の具が飛び出して、大切な絵の具が使えなくなっちゃう。
 「No!No! さわるな、それに」と言うや、国際交流基金が書いてくれた書類を彼の目の前につきつけた。
 「これ、見てよ。あやしい物じゃないですよ」と。ところが、彼はその書類を、ゴミでも見るように無視し、首を横に振る。
〈大変だ。彼は英語が読めない〉英語が出来る人を探さなくっちゃ。「誰か英語のできる人?」と騒いでいたら、インテリ風の私服の女性があらわれて、その書類を読んで、スペイン語にして職員に説明してくれた。ヤレヤレ。絵の具のフタも元に戻してくれた。
 「よかった、よかった。絵の具のフタを開けられちゃったら大変。国際交流基金の澤田さんに感謝、感謝」と出口にむかったら、後ろの三人が来ない。又、彼につかまっているのだ。
 「同じグループなのよ。この紙の」と、又、彼の目の前にその水戸黄門の印篭[いんろう]のように証明書をつきだしたら、しぶしぶ解放してくれた。


南米の飛行機は定刻主義
 空港の出口には我らのメンバーの一人、延賀さんの顔が見えた。彼は元サンホセ市の日本人学校の先生を三年やっていて、今は兵庫県の小学校の先生だ。
 延賀さんは、日本からロサンゼルス経由でボコタ空港に、私たちより五十五分前に到着のはずだ。
 「御存知のように、南米は飛行機の時間がめちゃくちゃで・・」と、メンバーの川合さんが問い合わせた旅行社に、開口一番言われたそうだ。
 私もまた、南の国だからのんびりしているのかもしれないと思って、
 「どちらの飛行機が遅れるかわかりませんが、ほどほどの時間になったら、ホテルへ直行して下さい。そのためにホテル名と電話番号を知らせておきます」と、一人、関西空港から出発する延賀さんに伝えていた。
 ところが、私たち七名が乗ったマドリット経由イベリアスペイン航空は、十四時五十五分定時きっかりについた。延賀さんの乗ったコスタリカ航空もちゃーんと定時についている。南米は定時主義であった。
 ボコタ空港で、全メンバー八名が初めて顔を合わせした。
 キミコ・プラン・ドウの川合京子さん。兵庫県の小学校の先生、延賀 浩二さん。前回のトンガ王国訪問でも、けん玉などのパフォーマンスをしてくれた貝田 明さん。長崎県佐々町の町会議員になってしまった伊達睦子さん。彼女は町会議員の補欠選挙に立候補するように勧められた時「八月はコロンビアへ行かなくちゃいけないからダメ」と断ったら、八月は議会が休みなので大丈夫と言われ、立候補したらトップ当選してしまった。コロンビアで働いているお兄さんの親友が在コロンビア日本大使ということも、コロンビア行きが決定してからわかったことだ。フランスのシラクとも連絡がとれる不思議な運命の人。
 もう一人の不思議な運命の人、関口 佳さんは、祖父がアインシュタインと知人だという。〈今回コロンビアでも通訳さんとさらに不思議なエンを発見〉。スキー指導員、ペンションの女主人、ダンサーと一人何役もこなす。
 そして、女子美術短大彫刻家の学生、斉藤芽美さん。以前に私がRメソッドとかいう英語教室へ見学に行った時に、一緒について来てくれて、英語でタンカが切ってくれた学生だ。今回は英語通訳として同行してもらった。
 カメラマンは「音楽広場」(クレヨンハウス)時代からのおつきあいトンガ王国の時も写真をとってくれた波多江俊美さん。
 空港へ迎えに来てくれた、コロンビア大学教授のマルガリータさん、上司である学科長のノーラ・ペーニアさんは目がさめるような青のブレザーに真っ赤なスカート。サバナ小中学校校長ギレルモさん、日本大使館の崎原啓子さんは真っ赤な皮のジャンパー、そして、ホテル・キャピタルの紺色のマントを着た美女二人。
 私の顔を見るなり、ギレルモ氏が何やら苦情らしきものを言う。崎原さんに通訳してもらったら「定員三十名というのは少なくて残念だ。勉強したい学生がいっぱいいるのに」と言っているそうだ。
 「じゃあ、定員ふやしていいですよ。何人入れる教室がありますか? 七十名? 机はありますか? だったら一〇〇名でもOKです」
 「ホントですか? わぁ嬉しい」と喜んでくれたが、私の頭の中では、三十五枚のパレットだからグループで一枚の絵を描く※トンガ方式でやればよいと考えた。

コロンビア滞在記は、いづれまとめて冊子にする予定です。たのしみに。

 コロンビアでの最後の日、テレビ局にマルガリータと一緒に録画に行った。ディレクターにキミ子方式の話をしても今一つピンと来ないようだ。手元にマルガリータが描いてくれた絵が五枚ある。私はその絵をディレクターに見せるようにマルガリータに言った。そして彼女は彼に見せた。「本当にあなたが描いたの?」。その時の彼のおどろき! そこから彼の態度が変わった。
 本番中では、キャスターにもキミ子方式の説明しなければいけない。そのキャスターにもマルガリータの絵を見せることにした。それを見たキャスターは、本番中だということも忘れ、おおきな目をむき出してびっくりしていた。その顔がカットされないで放映されますように。
 「日本は産業と経済の豊かな国だと思っていたけど、文化もすごいのですね」とキャスター。

 私たちのことが現地の新聞にカラーで大きく載ったのをきっかけに、在コロンビアジャマイカ大使から「ぜひ、我が国にも絵を教えに来て下さい。大都会だけでなく地方にも。滞在費と国内での移動費は負担します」と申し出てくれた。
 来年五月中旬にはジャマイカへ行く約束をした。


ジャマイカが大好きで、そこでキミ子方式を教えたい人は連絡下さい。





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